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●水色の太陽 第二章

記事No.157  -  投稿者 : one
2011/04/25(月)09:21  -  [編集]

第二章

『楽園の果実』

競技場からバスを飛ばすと、ものの10分ほどで海に着く。海水浴シーズンとは時期が外れているため、その砂浜は閑散としていた。
陽光に水面は煌めき、潮風が肌を擽る。しかしそんな神秘的な情景も、夕の目には薄ら寒く見えた。ほんの30分ほど前にここに来ていたらあるいは、また自然の美しさに感嘆出来たのかもしれない。



「俺の彼女の香奈っす!良い奴なんすよ。」
にししっと恥じらいの無い笑みを浮かべて、武人はそう言った。香奈と呼ばれた女は「だからそういうのやめてって!」と怒る振りをするが、紅潮した顔を見る限り、満更でもないようだ。
そうか、こいつもか。夕は眼前で繰り広げられるやり取りを見ながら、下手な期待に胸を踊らせていた自分を嘲笑する。そんな都合の良い話があるはずがない。そもそも、こいつは一つ後輩で他校の人間だ。拭い切れない隔たりがある。期待すれば期待するほど、痛いのは自分なんだと、『あの日』すでに悟っていた筈だったのに…。夕はふふっと笑って、いるはずが無いと思っている神様に感謝した。今回は、こんなに早く気付かせてくれてありがとう。
「香奈も知ってると思うけど、新藤夕先輩。ほらほら失礼の無いように!」
「あんたに言われたく無いから。」
強い口調で言い放った後、香奈は夕に向き直って、
「九条香奈です。…あの、私も短距離専門で、今日は先輩の走り、参考に出来たらな、と思っています。」
とハキハキ言った。横で武人が「誰だよ。」と言うのに、「うるさいな!」と怒嘲をあげていた。
目の前で行われるそれに、いつものナカマ達とのくだらない日常が重なる。こういう時の対応には慣れていた。また、見えない仮面を被れば良い。
「ハハッ!まるで夫婦漫才だな。香奈ちゃんだっけ?お前には勿体ないくらい可愛い子じゃん。」
笑顔、音量、言葉。どれをとってもパーフェクト。誰が聞いても普通の会話。
「そうっすか〜?何処にでも居ますよこれくらい。」
頭の後ろで手を組んで、いかにも軽くそう答えた。それを聞いた香奈は「あんたはあたしに失礼。」と、武人の腹を殴り付ける。武人はわざとらしく「ぐえ」と唸った。

しばらくそんな問答を続けて、香奈が突然「そうだ!もう集合時間だから武人を探してたんだった。」と言ったので、三人で荷物をとりに戻り、バスに向かった。夕は終始面白くもない二人のやり取りにくすくす笑っていた。
これで良い。これが一番良い。俺とお前はただのセンパイコウハイ。…これで、誰も痛くない。夕は虚しさに悲鳴をあげる自分の心に、そう言い聞かせた。



「砂浜ダッシュは嫌いっす…」と嘆く武人を尻目に、一同は練習に励む。今行われている『砂浜ダッシュ』とは、その名の通り砂浜上でダッシュを行うという、スポーツ全般に於いて定番中の定番メニュー。思うように走れないことから武人のように苦手意識を持つ者も少なくない。とはいっても、それなりの効果も期待出来るから、指導者側には好まれているらしい。
夕もある程度苦しんで、その本日最も辛いメニューを乗り越えた。
休憩中またもや武人が寄ってきて、「先輩彼女とかいるんすか?」とか「先輩随分こっちの方も遊んでるんでしょ?」などいかにもヘテロの会話を持ち出す。それらには笑い混じりに当たり障りの無い返事をしてやり過ごした。
休憩が終わった後はビーチバレーのような遊びで今日の練習を締め括り、競技場に帰って解散した。
夕が帰ろうと荷物を纏めていると武人が、
「先輩今日は楽しかったっす!お疲れ様でした!また大会とかで会いましょうね!」
と言いに来た。夕はそれに小さく笑って「ああ、おつかれ。またな。頑張れよ。」とつぎはぎのような言葉を返した。聞いて武人はまた子供のように笑い、「それでわ!」と言って敬礼じみた事をして帰って行った。奴の背中を見送りながら、夕は、なんだか胸にぽっかり穴が開いたような、そんな感覚を覚えていた。

なぜかその日はいつになく、夜が寂しく感じた。




人のざわめきは時として個人の思考を妨げる。
一般的には忌み嫌われるものだが、夕はその騒音の中に居るとある意味安心出来た。
すでに人が多く集まった教室の窓際の机に、数人の男が固まっている。夕は中心に腰掛け、回りには四五人が立っていたり、机に座っていたりした。

「春休みの課題終わった?」
「数学以外ね。」
「今日最終日っつってたじゃん。」
「あれ他のと比べると無駄に多いしやる気出ないんだよ。」
「しかもやってもわかんないし。」
「確かに。」

アハハ という二三人の笑いが聞こえる。1番乾いた声は夕のものだ。

「そういえば昨日の…。」
誰かがそう言いかけたが、始業のベルが言葉を切った。
夕の回りにいた人間は、「始まった始まった」などと言いながら方々自分の席に戻って行った。
間もなく担任の教諭が教室に入って来て、出席をとった。

夕は、何ともなしに学校生活の中に居た。
時間は矢のように過ぎる。いつの間にか新一年の入学式は終わり、同時に始業式も終わっていた。
寂しい夜はあの日よりずっと続くが、その理由には依然目を閉じたままだった。

三年になったら、教室が三階になった。海が近く小高い丘の上に立つこの学校は、三階から窓を覗くと家家の奥にほんの少しだが海が顔を出す。とは言っても、この季節は黄砂が酷く、あまり見えないのだが。

それでも夕は窓の外をぼんやりと眺めていた。ふと、小さな鳥が二羽飛んでいるのが見えた。
よくは見えないが、多分雀だろう。
二羽は戯れるように上下し、暫くそのままおぼつかない浮遊を続けて電信柱から伸びる電線につかまった。

鳥には意識があるのだろうか。

夕はなんとなくそう思った。
鳥だけでは無い。猫も、犬も、虫も、植物も。
万物には一体、「意識」というものがあるのだろうか。
人と同じように、「思考」することが出来るのだろうか。
これがもし、人間にのみ許された特権だと言うなら、人とはなんと面倒なものを授けられたものだろうと、夕は思う。
意識を持つが故に悲しみに沈み、怒りに震える。
鳥があれほどにも優雅なのが、意識を持たないが為だと言うなら、こんな面倒なものは無い方が良いのではないだろうか。

いつの間にか、あの鳥達はいなくなっていた。



「しゃーっす。」
競技場に出る扉を開けながら、夕は一礼した。そこに入る時は決まってそう言う。語源は『お願いします』だがどこかで壊れたらしい。
ここの競技場は入口がエントランスになっており、そこも電光掲示板があるようなハイテクな競技場とは格が違うほどにみすぼらしい内装だ。色の付いたアスファルトに固いソファーがいくつか並んでいるだけ。場内ではタータンの中心の芝は数ヶ月に一度刈り入れがされるが、基本は野ざらしだった。おかげで使用料は無料も同然である。学校からは自転車を飛ばせばものの10分程で着く。
放課後の部活となると時刻は夕方になる。4月とはいえまだあまり日が長くないから既に空は朱く染まって来ていた。

荷物を適当にタータンの上に放り、軽く伸びをした。後ろでぞろぞろと部員が入って来て、あの軽い挨拶をしているのが聞こえる。

間もなくキャプテンが集合をかけ、競技場に対してしっかりした挨拶を全員でやってジョグに移った。


全部練習が終わってダウンが始まる頃には、もうすっかり日が落ちていた。
そのまま解散して、家の方向が一緒の信也と連れ立って帰る。

夕の一日は、この繰り返しだ。


実際の所、夕は「学校」という環境は嫌いではなかった。
授業に出て前に立つ教師の話を聞いて板書を写してさえいれば、嫌でも時間は過ぎていく。
休み時間には人並みにトイレに連れ立って意味もない話をしたり、昼食時にはすぐ売り切れるパンを買うために購買に走る。
そして部活の時間になれば、ただ無心に100mのタータンを蹴った。
それらは全て、夕の心の孤独感を紛らわすための一時的な儀式であり、その時間中は確かに、自分が異常者であるという心の枷を払拭する事が出来た。

また、夕は基本的に多くの人間と行動を共にした。
それは行動する際の人数ではなく、ユウジンとして付き合っている人間の数だ。
分け隔てなく人と接し、誰とでも話をする。それは他人が一見するとただ夕が八方美人であるように映る。
しかしこれは夕が特定の人間との関わりを深くすることを恐れたからだ。
深い関係になればなる程相手に重大な秘め事をしているという負い目を感じてくる。それは夕の心の孤独感を助長し、ある種の虚無感を与えた。
夕が多くの人間と付き合うのは、付き合う人間の数に乗じて一人一人との関係性が希薄になり、深い人間関係を形成する必要がなくなるからだった。
ちなみに『陸上部』という閉鎖された空間に於いては、容易に部員との関係が深まってしまう傾向があるので、夕は部内では極力個人行動を主としていた。
そういった夕の行動に疑問を抱く人間は誰も居ない。それが、夕の築いてきた『浅い関係』の効果だった。

夕の学校生活とは、そういったものだ。新しい学年に上がっても、その生活に狂いは無かった。
いや、無い筈だった。




五月も間近に控えた頃の日曜日、部活も休みだったので夕はあるスポーツショップに来ていた。
そこの陸上スパイクの棚で、あるスパイクに手を伸ばし裏返っていた値札を返した瞬間夕は肩を落とした。

「にまんきゅうせんはっぴゃくって…ねぇ…。」

需要の少ない陸上グッズは競技人口が全人口の一割を占めるサッカーなどの商品より些か値が張る。専門色が強ければ強い程その傾向は顕著だ。
夕が触れたスパイクは短距離専門のスパイクで、シルバーをベースにしたなかなかスタイリッシュなデザインだった。
値段は29800円。高校生の小遣いではにわかに買える商品ではない。
夕はジーンズのポケットからちょっとしたブランド物の財布を取り出し、入れ物と矛盾する野口英世三枚を確認した。しばらく腕を組んで支出の計算をしてみるが、その方程式は永遠に解を示さない。
ボリボリと頭を掻いて「親父に頼んでみるか」と頭の中で呟いて、そのまま踵を返した。
店を出る途中にすれ違った店員に「ありがとうございました!またお越し下さい!」と何も買っていない自分に対して言われるのが、なんとなく後ろめたい気がした。


後方で自動ドアが無機質に閉まる音が聞こえる。途端、冷たい風が顔にかかった。ついこの間は夏かと思うほど暑かったのに、この日は上着がないと少し肌寒いくらいだ。空も打って変わって厚い雲が張っている。今にも一雨降りそうだ。夕は空を見て少し顔をしかめた。

さて、次は何をしよう。
時々何故かこういった気分になる。
やることはハッキリ決まっていても、いきなり宙に放り投げられたように行動に迷う。
正直、もはや家に帰る他やるべきことは無いのに、夕は動き渋っていた。
まぁ、とりあえず前に進むか。
それはそう思い立った時だった。どうも見覚えのある奴が目に入った。

武人、だ。

そのスポーツショップは夕の住む地域では最も大きく品揃えも豊富で、近郊地域に住む人間は『スポーツ』といえば大体此処に集まる。ここならば、他校の生徒と鉢合わせることはよくあることだった。
先程までは肌寒い気がしていたのに何故か気温が上がったような気がする。

夕の視界に映る武人は駐車場の向こうから携帯電話をいじりながらこちらに真っ直ぐ歩いて来ていて、どうも夕には気付いていないようだ。
細身のジーンズに上は何かのジャージ。いかにもスポーティブな武人然とした格好で、そのあまりの自然さに夕は少し笑えた。
当人は手前10mくらいまで来てようやく夕の存在に気付き、「あれ〜!?先輩じゃないっすか!」とか言いながら大袈裟なリアクションをとった。夕は平然とした声で「オッス」と返した。


「俺もスパイク見に来たんすよ。ずっとなんか素人が使うみたいな奴使ってたんで。」
結局武人に付き合わされて夕はもう一度そのショップに入る事になった。さっき笑顔で挨拶された店員にまたしても「いらっしゃいませ!」と言われる嵌めになり、なんとなくムカついた。先程既に充分見たスパイクの棚を今度は武人が物色している。
「今何使ってんの?」
「ジオ…なんとかって奴っす。銀色の。」
「あぁ、ジオスナイパー?別に素人向けって事は無いだろ。」
素人向けってのはこんな奴、と言って夕は一番左端の見るからに頑丈そうなスパイクを取ってヒラヒラさせた。ちらと見えた値段は4500円だった。
「でもあれ短距離専用じゃないっすよね?何でも使える、みたいな。」
「まぁそこが売りだからな、あれは。じゃあ何、タイガーパウとかにする?短距離専用の。」
言って実物を手にしてみせる。21980円。高い。
「いやー、色が嫌っすねぇ。なんか青っぽいのが良いんすよ。ん〜…これとか。」
手にしたのはブルー主体のめちゃくちゃに肉抜きのされたスパイクだった。確かに種目は100・200と書いてある。19800円。
「ふーん、サイバーレイ。良いんじゃね? ただちょっとそれ足幅が広いから靴擦れしやすいかもな。」
「なんか先輩物知りっすね…。」
「年の功だよ。」
「え〜、一年ぽっちの?」
「うるせー。てかどうすんの、それに決めるの?」
武人は少し考えて、もうこれで良いっす、と言って店員を呼んだ。
試着してみて「確かにちょっと広いっすねー」とかぶつぶつ言っていたが、結局「まぁいっか」という結論を下してレジに向かった。
そこで夕が武人を相当適当な奴だ、と認識したことは言うまでもない。


二人の背後で無機質に自動ドアが閉まる。この感覚は、夕にとっては本日二度目だ。
外は雨こそ降っていないが、依然雲行きは怪しいままだった。にも関わらず武人は妙にハイテンションで、「今日ちょっと寒いっすよね〜」とか言いながらつい先程買ったスパイクの袋をぶんぶん振り回していた。
「お前、なんかテンション高いな。」
何気なしに夕はそう言った。すると、
「そりゃあ、だって先輩に会えて、それだけで嬉しいのに、まさか買い物にも付き合って貰えて、もう俺思い残すこと無いっすから!」
武人は臆面も無くそう答えた。そして、子供みたいに笑う。

「何言ってんだよ、ばーか。」

夕はそう悪態をついていたが、なんだか自分の顔が火照るのを感じた。

その時、ポツ、と顔に水滴が落ちた。それは次第に周囲の駐車場のアスファルトにも点々と小さな染みを作り出した。
「わ!降ってきたっすね!どうしよ、俺傘持って来て無いんすよ!」
空いている方の手で頭を覆いながら武人は言った。
「家は?」
「結構遠いんすよ。電車で30分くらい。200円で傘は中々買えないっすよね…。」
雨は勢いを増す。あまり考える時間も無かった。
「じゃあ俺の家すぐそこだから、少し雨宿りしてけよ。傘くらいなら貸してやるし。」
「え、まじっすか!? いや、それは流石に悪いっすよ!」
「別に良いから。駅も近いぞ。」
武人は少し考える素振りを見せたが、如何せん強まる雨に思考の猶予は無いようだった。
「じゃ、お言葉に甘えさせて貰います。」
「オゥ。じゃあ、とりあえず走るか。」
付いてこいよ、と言って夕は寸分待たずに駆け出した。
「ちょ、先輩速いっす!俺、荷物!」
そんな不評を言いながら、スパイクの箱を邪魔そうに抱え武人も夕の背中を追う。

雨はいつの間にか本降りになっていた。



件の店から走って約5分、大通りから一本入った道に沿った小洒落た団地。鉄道の駅のすぐ近く。夕の家はそんな場所に在る。
息を切らして彼らがそこに到着した頃には、もはや傘など意味を成さないほどに全身ずぶ濡れだった。

「マジありえねぇ…。」
家の前の雨の当たらない場所で、着ていたカットソーの裾を絞ると、ジャッと雨水が湧き出した。武人も同様にジャージの裾を絞って騒いでいた。
「それにしても、なんかオシャレで良い感じのお家ですね〜。」
「小さいのが球に傷だけどな。」
呆れたように言いながら、玄関の鍵を開けた。扉を開けると、そこには靴が一足も並んでいない。日曜の一般家庭には珍しい光景だった。
「先輩今日は親いらっしゃらないんすか?」
「いや、今日はたまたま。二人とも会社の都合で夜まで帰らないんだとさ。不景気で日曜も駆り出されてる。」
夕の親は共働きだった。父親は有名スポーツメーカーの下請けの会社に勤務し、母親は化粧品会社の販売員をやっている。
「兄弟とかは?」
「俺一人。」
「独りっ子っすか!楽そうですねぇ。」
「暇なだけだよ。」
水を吸って重くなったスニーカーと靴下を脱いで、家に上がる。しかし武人は戸惑ったように家の外で突っ立っていた。
「何してんだよ。早く上がれよ。」
「え、でも俺こんなんすよ!汚しちゃいますし…。」
「ばーか。逆にそんなんで電車乗れねぇだろ。第一俺も濡れてんだから変わらねぇよ。」
武人はそれを聞いて成る程といった顔をして、じゃあお邪魔しま〜す、と申し訳なさそうに敷居を跨いだ。
「ちょっと待ってろよ。」
夕はそう言って、武人を玄関に残して家の中を進んだ。リビングのクローゼットを開けて中から厚手のタオルを二枚取り出すと、一枚でガシガシと頭を拭いて、カットソーとインナーを脱いで上半身裸になった。タオルを首にかけたらそのまま洗面所にある洗濯機に今脱いだ物を突っ込んで、また玄関に戻った。
「ほらよ。適当に拭いて。」
言ってタオルを武人に投げた。反応が遅れたのか、手で受け止められず頭にばさっと掛かった。
「わ!ありがとうございます!なんか本当お世話になっちゃって。」
武人はスパイクの箱を玄関の隅に置くとそのまま頭を拭いて、夕の方を見てしばらく眺めてから言った。
「先輩やっぱりかなり筋肉質っすね…。服着てると分かんないけど、腹筋とか胸筋とか物凄い…。」
何も考えずに上半身裸のまま来てしまったが、そう言われると、なんだか気恥ずかしかった。
「うっせぇ!ジロジロ見んなっ。そんなん良いからお前も脱げ。一緒に洗っちまうから。」
「え〜、先輩のエッチ。」
「黙れ。」
武人はへ〜い、と言いながら、ジャージと一緒に中に着ていたTシャツも脱いだ。
細身ながらも良質な筋肉に覆われた半身が露わになる。陸上をしている者特有の端正なボディに、夕は少し見とれてしまった。なんとなく直視出来ずに、後ろを向いて、
「靴下も脱いで付いてこい。洗濯機こっち。」
そう言ってまた洗面所に向かった。
武人は後ろでウス、と唸って家に上がるとき二度目のお邪魔しますを言ってから、夕の後ろを付いてきた。
家の中を上半身裸の男が二人連れ立って歩いている図は、中々に滑稽なものである。

実は夕はここで少し当惑していた。家に友人を招いたのは、相当久しぶりであったし、また、須らく深い友人関係を絶ってきた筈だったのに、武人を家に上げる事になんの迷いも抱かず、至って自然な行動として行っていた。これは夕にとって、とても不思議な事であった。
あくまで奴との関係は、「先輩と後輩」のものでなければならない。今の自分の行動は、限りなくそれを逸脱しているのではないか。
だから、夕は当惑していた。
奴に絆される訳にはいかない。
理解してはいたが、夕の心は何かを叫び続けていた。

「ズボンも乾かすから脱げよ。履くもん貸してやるから。」
洗濯機のスタートボタンを押しながら夕は言った。
「まじっすか〜?予想はしてましたけど…。」
武人は案外すんなりと下も脱いでトランクス一枚になった。流石はスプリンターといった感じで、その毛の目立たない太腿やふくらはぎの筋肉のラインは、美しさすらあった。そしてその青地のトランクスの中心部には、男性特有の膨らみ。
夕は出来るだけそれらを見ないようにした。
これはただ単に義理でやっているだけ。夕は自分に言い聞かせた。
武人の濡れたジーンズをタンブラにほうり込み、摘みを適当に回して「とりあえず俺の部屋行こう。」と言った。

夕の部屋は階段を上がってすぐの部屋だった。扉には、金色の小さなプレートが嵌まっていて、そこに『YOU』と言う文字が彫り込まれている。
ドアを開けるとそこには全く物が下に落ちていない必要最低限の家具が並ぶ八丈部屋があった。
「へ〜、流石先輩。お部屋も綺麗っすねぇ。俺の部屋なんて立つ場所すら無いっすよ。」
そう言ってトランクス一枚の武人は、ぺたぺたとフローリングを歩いて来る。
夕は据え置きのタンスから適当なTシャツとジャージを引っ張り出して武人に投げた。武人は「わ!先輩の服!こんな体験中々できないっ。」と興奮気味だった。

自分も適当な普段着に着替え、夕のジャージに身を包んだ武人に、ベッドにでもかけとけ、と言って夕は自分の椅子に座った。武人は依然嬉しそうで、「失礼します!」とか言って言われた通りにベッドに腰掛けた。キョロキョロと回りを見ていたかと思ったら、武人の視線が一点に止まった。そこには、壁に立て掛けるように一本のアコースティックギターがあった。最低限度のアイテムしかないその部屋にとっては、明らかにそのギターは異彩を放っている。

「先輩ギター弾くんすか?」
「趣味程度にな。」
「もしかして弾き語りなんかも出来る?」
「コードが解れば大体。」
「へ〜。やっぱり先輩かっくいいっすね〜。ちょっとやってみて下さいよ!」
「嫌だよ恥ずかしい。」
「え〜、そこをなんとか!」
「いやだ。」

武人は「ちぇ〜っ」と舌打ちのような声を出して夕のベッドに倒れ込んだ。すぐに「あ、スイマセン。」と言いながら起き上がったが。
「お前兄弟いるんだな。」
夕は聞いた。
「あ〜、妹が一人いますよ。今中二なんすけど。めちゃくちゃうざいっすよ。」
「中学生は大体ちょっと不安定だからな。」
そう言ったら武人は何かを思い付いたみたいにまたキョロキョロしだした。
「どうした?」
訝しんでそう聞いたが、次の言葉に、夕は凍った。
「中学の卒業アルバムとか無いんすか?」

迂闊だった。自室に招けば、こういった話題になる事は簡単に予想できたはずなのに。
夕には、武人にそれを見せることが出来ない大きな理由があった。

「無い。」

夕はそう答えるしか無かった。出来るだけ平淡に、動揺を見せずに。

「え、嘘付かないで下さいよ。無いって事は無いでしょ〜。」
武人は依然ベッドの上で周囲を見渡している。
「マジで無いから!前に間違えて雑誌と一緒に捨てちまったんだよ。」
「え〜、それは大分間違えましたね。」
「マジであれはミスったよ。」
ハハっと夕は渇いた笑いを見せて、「そういえばさっきの妹の話、聞かせろよ」と言って話題を逸らした。
武人は「妹ですか〜?」などと言って嫌そうな顔をしたが「え〜っと、名前は優美華って言うんすけど…。」と話し始めた。
夕は内心胸を撫で下ろすような気分だった。

しばらくそんな話を続けて、洗濯が終わってそれもタンブラに入れて渇いたら、それに着替えて武人は帰って行った。雨はもう止んでいて、傘を貸す必要は無かった。去り際に「楽しかったっす!また来ますね!」などと言っていたが、夕はそれが嬉しいようで恐ろしいような気もした。

武人のいなくなった自室で、勉強机の引き出しから、表紙に『○○中学校○年度 卒業アルバム』と書かれた重い本を取り出し、夕はそのページをめくった。
しかし、アルバムには、一切夕の姿は無い。
夕の写っていた筈の場所はその形の空洞になっている。
そして、その空洞は必ず、二人分の人間が入る大きさに切り抜かれていた。
まるで、かつて夕の隣には必ず『誰か』がいたかのように。

夕は、アルバムを閉じて、それをまた引き出しにしまった。
夕の脳裏では、『あの日』が回顧していた。




気が付くと闇の中を歩いている。夕は独りだった。
自分がどこに向かっているのか全く解らなかったが、その足は一人手に歩を進める。何かがその向こうにある気がした。

聞こえるのは、自分の足音だけ。

暫くして、いきなり辺りが明るくなった。
小鳥が囀り陽光は眩しく、緑の木々と一面の野原。そこはまるで楽園のように美しい場所だ。

目の前には大きな木が一本あった。みると美味しそうな赤い実をつけている。
夕は、その実を食べてはいけない事を知っていた。誰に教わったわけでは無いが、何故か本能的に理解していた。
しかし、夕はどうしてもその実が食べたかった。
それがどれほどに甘美で、至福な味を持つのか、知りたくて仕方が無かった。
いけない、とは頭で理解していても、夕の手はその実に伸びた。
パキっと枝から実を摘むと、そのこの世の物とは思えない程に赤く熟した実が夕を誘惑する。

シャリ、夕は、それを一口かじった。

瞬間、辺りはまた真っ暗になった。

目の前には、『あいつ』が居た。
『あいつ』は、ただじっと夕を見る。あの目で。

気味の悪い物を見るような、化け物でも見るようなあの目で。

夕は哭んだ。何かを。



目を開けると目の前にあるのはいつもの天井だった。
夕はムクと起き上がり。身体に掛かっている布団を足元に追いやる。
なんだか気持ちが悪い。身体は汗でべたついていた。
夕は額に手を置いて、一つため息を吐いた。前髪が額に纏わり付いていてこれも欝陶しい。

『あの日』の夢。最近はあまり見なくなったのに。

まぁ、原因はやはり、あいつだろう。

夕はそう思い立って、途端「ふふっ」と小さく笑った。

大丈夫だよ。夕。もうあんな過ちは犯さない。
一時の至福の為に全てを台なしにするなんて、もうしない。

『もう誰も好きにならない。』
『あの日』、そう決めた筈だ。

だから、…武人は、ただの後輩。あいつも、俺にとってはただの他人。『友人A』と、何も変わらない。

夕は自分に言い聞かせた。

しかし、夕のそんな気概とは裏腹に、武人とはまたすぐに再会する事になった。




『県選』
彼らはその大会を通称としてそう呼んでいた。
それはシーズン中ではインターハイ予選の次に重要な大会になる。これで上位に入ると付近の県統合の選手権にエントリーでき、それも勝ち上がると今度は日本選手権と繋がってゆく。
とは言ってもこれは社会人も出て来るので、高校生が上位を狙うのは厳しいものがあった。そのため、夕はこの大会を力試し、もしくは調整の為の大会だと割り切っている。

陸上部30人近くは朝早くから学校に集合し、富田が部の為に自腹半分で買ったマイクロバスに乗って県内で最も大きな競技場に向かった。
29人乗りであるそのバスでは、部員数がギリギリなので最近富田が「大型免許とろうかなぁ」という言葉をボソッと呟いたのを夕は聞いていた。

会場は既に多くの人が集まって来ていた。最終的には県内のほぼ全ての高校陸上部と大学生と社会人が大勢集まるのだからその人数は計り知れない。
夕達は富田と別れると前日にすでに陣取りをしていた場所に荷物を置いて、朝のアップに入った。その大会はまだ一年は出ない事が多いので、二・三年がアップに行っている間に新一年とマネージャーでテントを組むのが慣わしだった。
「今日バトン何色にする?」
夕にそう聞いてきたのは400m専門の淳だった。六色入りのバトンケースを差し出している。
夕はお決まりのようにその中から金と銀二本のバトンを抜き取った。淳は「やっぱりか」と言って笑っていた。

当たり前だが夕は4×100mリレーや4×400mリレーのメンバーだ。そのメンバーは夕と信也と淳に、もう一人は二年の前山という奴だった。前山も夕と同じ短距離を専門としている。この陸上部は部員数があまり多くないので、そのメンバーはどうしても重複してしまう。おかげでリレーメンバーはとてつもない体力を要した。
メンバーはアップ時バトンの練習の為それ以外の選手とは別にアップをすることになっている。

「9時半から四継の予選だっけ?」
夕は聞いた。『四継』とは4×100mリレーの通称だ。
「うん。まぁ予選は気楽に行こうよ。」
言いながら淳はランニングシューズの紐を結び直し、しっかり結ぶと「前山!行くぞ!」と叫んだ。少し離れた場所で一年にテントの立て方を教えていた前山本人は、「え、ハ、ハイ!」という気の抜けた返事を返していた。

四人でジョグをしながらバトンの練習をしている時、トラックを回るついで夕は妙に辺りを気にした。無論、それはあいつを探しての事だった。
少し背の高い人が目に入る度夕はそちらに目が行くが、それが奴じゃないと分かるとなんとなく気が落ちた。おかげで注意力が散漫になっていつもは絶対に落とさないバトンを何度か落とした。流石にメンバーもそれは不思議がった。

しかしそれはジョグが終了して準備体操に入ろうと言う時だった。トラックの中の芝生で肩の関節をストレッチしている時、競技場にちょっと見慣れたジャージの団体が入って来た。武人の高校だ。今からアップ、と言った感じだった。
夕はすぐに武人を見つけた。
あいつはいつも楽しそうで、いつもどこかはしゃいでいるからとても目立つ。その容姿も後押ししていると思われるが。バトンを持っている所を見ると、どうも武人もリレーメンバーらしい。
夕がぼ〜っとそちらを眺めていると、武人がふとこちらを見た、ような気がした。結構遠くにいるので目線までは判らない。が、それは気のせいではなかったらしく、武人が凄いスピードでこちらに向かってくる。
奴はそのままスピードを緩めること無く「せんぱ〜い!」とか言って夕に飛び掛かって来る。それはもうほぼタックルに近かった。夕はそれを咄嗟に避けた。
武人は一人芝生にダイブして、そのまま一回転すると夕に向き直って「なんで避けるんすか!」と言った。夕は「避けなかったら死んでたからだ」と冷静に返した。

「先輩リレー何走っすか?」
「二走。」
「あ、一緒っす!やった!それじゃ今からアップっすからまた後で!」

それだけ言って武人はまた走って行った。本当に台風みたいな奴だと夕は思う。

アップが終わったら一度もうすっかり形を成したテントに戻って、メンバーと少し話をした後コール場所に向かった。コールとは選手の点呼の事だ。
そこには既に武人が居た。
夕を見つけると、嬉しそうに手を振った。
武人の隣に荷物を置いて、夕はそこに無言で腰掛けた。
その時、ちょうど女子のリレーの予選が始まった。
「香奈が出てるんですよ。」
言って武人は三走の方を指差した。その指の先には、あの小柄な少女が居た。元々小さいのに遠くだとさらに小さく見える。
夕の心臓がチクりと痛む。
「予選は通るのか?」
アナウンスが鳴っている。辺りが一気に静かになった。
「多分通ります。結構速いんすよ。」
武人は小さくそう言った。
『位置について』が会場全域に響く。一走がスターティングブロックに足をかけているのが見える。
『よ〜い』で腰をあげ、…号砲でスタートした。途端、静まり返っていた会場が一気に湧く。武人もチームメイトに何か叫んでいる。
夕はなんとなく手持ち無沙汰な気がした。が、応援しようにも夕の高校の陸上部は女子部員が今年に何人か入ったが、二・三年はマネージャーしかいないのでリレーのメンバーが組めていなかった。

香奈にバトンが渡った時は既に武人の高校はトップを争っていた。
二年とは思わせない走り。夕の目から見ても、香奈は武人同様優秀な選手だった。
…なんて似合いの二人なんだろう。
夕の心臓がまたチクりと痛む。

香奈達は予選の一組を二位で通過した。

「中々やるでしょ?」
武人は自慢げに笑う。
「あいついっぱい三年いる中でも速い方なんすよ。」
その嬉しそうな顔に夕は少しむっとした。
「予選二着じゃ準決も危ないだろ。」
「え、ま、まぁ、そりゃそうですけど…。」
思いの外冷たい夕の返事に武人は少し驚いていた。
何となくそこに気まずい空気が流れた。

ここで夕はようやく気付いた。自分の決意と言動の矛盾に。意識すまいと思っていたのにいざ本人を前にすると揺らいでしまっていた。
今の言葉も自分の香奈に対する嫉妬心から来たものなのは明白だった。
…まったく自分の弱さには呆れる。

夕は大きく息を吐いてシューズの紐を解いた。
武人は依然黙ったままだ。

競技は着々と進んでリレー予選が終わった。
夕のチームも武人のチームも組一位で予選は通過していた。
その間二人が交わした言葉は夕が走る際の「頑張って下さい」「おう」というやり取りだけだった。
夕は武人が走り終えてコール場所に戻ってくるのを待たずに、メンバーと合流してさっさとテントに帰ってしまった。


「お疲れ様!とりあえず42秒台出てるから、バトンさえ通れば決勝も上位狙えるでしょ!」
テントに入るとストップウォッチを持ったともよが言った。競技に出ていない一・二年の「お疲れ様でした〜」が四方から聞こえる。
夕は「ああ」と一言だけ言って下にひいてあるマットに転がった。
なんとなく気分が乗らない。心なしか足も重い。
なんだかぐるぐるしている。
香奈の事を自分の事のように話す武人にも腹が立ったが、それに腹を立てる自分自身にもっと腹が立った。
なんて身勝手なのか。相手の心情を無視して自分勝手に感情を起伏させる。これでは『あの時』と何も変わらない。

夕が暫く突っ伏していると、誰かが近くに来たのが分かった。顔を上げると、ともよが居た。
「どこか悪いの?さっきの走りもちょっと良くなかったよね。」
「別に…。」
「…本当に?」
ともよは身を乗り出す。すごいプレッシャーだ。
「…ちょっと足が重い気がする。」
そう言うしかなかった。嘘では無い。本当にそんな気がした。
「どの辺?」
ともよは躊躇も無しに夕の足を探り出した。慣れた手つきだ。噂によるとともよは時間が空くとマッサージの講習を受けたり、本で勉強したりしているらしい。
「ふくらはぎのとこ。」
夕がそう言うとその辺りを軽く圧迫したりしている。
「確かにちょっと張りがあるね。…どうしてだろう。今日始めから?」
「いや、走ってから。」
「ふ〜ん。じゃあもっと張りが出て来るかもしれないから、危ないと思ったら棄権してね。こんな大会で肉離れとかしたら馬鹿みたいだよ。」
「分かった。」
「100mのアップはどうする?すぐ予選だけど。」
「体操と流しだけするよ。」
「分かった。無理しないでね。」
そう言ってともよは離れて行った。
夕も立ち上がって軽く伸びをした。ともよがちょっと離れた場所で「先生には私から言っておくから!」と言っていた。夕は軽く手を挙げて了解の合図にした。

テントでは他の部員達が他愛ない話をしたりプログラムを見て騒いだりしている。
夕は奥で話をしている前山に目配せをして、「アップ行くぞ。」とだけ言った。
前山は慌てて準備を始めた。

前山も同じ短距離なのでアップは一緒に行う。夕には及ばないが、彼も優秀な選手だった。記録は県内なら二年の中ではトップで、三年を含めてもベストファイブには入る実力を持っている。しかしそんな選手でありながら、どうもカリスマ性に乏しく周りから過小評価されがちだった。本人もそれが悩みだと言う。

アップ用のサブトラックで体操をしている時、前山が夕に聞いて来た。
「先輩今日調子悪いんですか?」
伸脚をするとふくらはぎ付近の筋肉がぴんと突っ張る。同時に淡い痛みを感じる。これは確かに、調子が良いとは言えない。
「そうだな。今日は100の予選とリレーだけにするかもな。」
「マジですか!?」
「大袈裟に喚くなよ…。ここで怪我は出来ないだろ。総体まで一ヶ月切ってる。」
正直言って夕はそんなものどうでもよく思っているのだが、体面上それがベストな答だと思った。
「そうですか…。」
前山はなぜか落ち込んだような声をだした。
夕はそれに少しいらついた。

夕は平生、そういった人間が嫌いだった。同情した振り、同調した振り。本当はどうでもいいと思っているくせにまるで我が事のように一喜一憂する振りをする人間が大嫌いだった。
とはいえ、そういった人間は今やその辺に溢れているのが実状。逆にそう振る舞わなければ『あいつは性格が悪い』というレッテルを貼られる。自分の本心を何処までも隠し続けなければいけない、窮屈な世の中。夕はそれに辟易していた。
しかし、夕の日常は‘そういった人間の振り’だ。夕もまた、そんな世の中に同化しつつある。或は、わざと同化している、と云うべきか。
夕はそんな自分を少し自嘲した。

前山が流しに行っている間、そんな事を考えていたら、いきなり誰かにガバッと後ろから抱き着かれた。夕は最初何がなんだかわからなかった。
その正体不明の誰かが「センパイ」という声を出してようやく、それが武人だと理解できた。
理解した瞬間、体内の血液が一気に顔に集まるのが夕には分かった。その辺には短距離のアップに来ている連中が大勢居たが、武人はお構い無しだった。
「た、武人?なんだよ、いきなり…。」
恥ずかしくて後ろを見れない。武人の息が耳に掛かる。
「先輩、怒ってるんすよね。俺、なんか嫌なこと言ったんすか…?だったら、謝りますから機嫌直して下さい。」
夕はこの大衆の面前でとんでもない状況になっている事の恥ずかしさと、武人に抱かれていることの驚きの両方で蒸気でも噴きそうな頭の中、『あいつ』の言葉が重なった。
『夕、何怒ってんだよ…。俺がなんか言ったんだろ?言ってくれよ。謝るから…。』
あの時『あいつ』もそう言った。
同じだ。全部。
思い出して少し頭が冷めて、ちょっと冷静になれた。とりあえずこの状況をどうにかしなければならない。
「つうか、離れろ!気持ちわりぃだろが!」
そう言って身をよじる。武人は夕を解放した。
自由になって夕は武人に向き直って、「別になんも怒ってねぇよ!ちょっと足の調子が悪いから気分悪いだけ!お前ごときが俺の気分害せると思うなよ。自惚れんな!」
最後の台詞はちょっとキツすぎたかと思ったが、どうも武人にはその部分は聞こえていなかったらしい。
「ホントっすか!?怒ってないんすか?? …良かった〜。俺先輩怒らせちゃったのかと思ってめちゃくちゃ沈んでたんすよ〜。」
「気のせいだよ馬鹿。」
「うっす。ちょっとハズイっす。」
さっきまで死にそうなほど暗かった武人の顔が、もういつものように明るくなった。
暫くしたら前山が帰って来た。
初対面という訳ではないがあまり仲良くはなかった筈の前山に、武人はいきなり「あ!お前は俺の積年のライバル前山!」などと言って絡みだした。最初は前山も戸惑っていたが、すぐに武人のキャラに打ち解けていた。

そのまま夕達は100mの予選に出て、三人とも準決出場を決めた。
しかし夕は100m予選を終えたらいよいよ足の調子が芳しくなくなって、宣告通りリレー以外の出場を棄権することになった。
それを受けて武人はなんかぶーぶー不評を言っていた。

その大会はそのままのテンションで終了した。
武人も前山も100m決勝には惜しくも出られず、リレーも夕の不調もあって決勝では八位だった。
二日目にはマイル(4×400mリレーの通称)と200mがあったが、足の調子が戻らず夕はどちらも出なかった。

実際のところ、夕の心は揺れていた。武人の一挙一動は確実に夕を誘惑する。
まるで、あの果実のように。
その真っ赤な果実に伸びる腕を、夕は必死で抑えているのであった。


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