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ただそれを見ていた


記事No.44  -  投稿者 : Telecastic  -  2009/02/04(水)01:08  -  [編集]
 夕闇に包まれた街中で、湿った風がゆっくりと鼻の上を通った。御堂 秦汰は、その匂いを嗅ぐと、折り畳み傘を家に忘れてきた事を思い出し、小さく舌打ちをした。何しろ急いで家から飛び出してきたものだから、鍵をかけたかどうかも危うい。鍵はともかく、傘はそこら辺の売店で購入すれば何とかなるのだが、秦汰の様な売れない役者にとってはその出費すらも懐に確実な打撃を与えてしまう。どれだけ安い店で買っても、傘は最低で百五円する。百五円あれば、もやしが三パックも買えるのだ。そうすれば一日三食、もやし炒めを食べる事ができる。
 秦汰は落胆した。いつの間にこんなにせせこましい人間になってしまったのだろう。
十代後半の頃は、傘を忘れるなんてしょっちゅうだった。その度に「まぁいいか」と傘を買い、しまいには家に大量に溜まり、親に怒られるくらいの大雑把さは見せていた。それなのに今は、「まぁいいか」と思う事ができない。家を出かける時には必ずガスの元栓を締め、コンセントに刺さっているコードを全て抜き、水道のメーターを止める程の徹底した節約をしている。貧困というのはここまで人格を変えてしまうのかと、身をもって実感した秦汰はため息を吐く他なかった。
 秦汰が住んでいる家から三十分程歩くと地下鉄の駅が見えてくる。勿論、電車に乗る金はない。線路に沿って北へ歩くと、一時間程で次の駅に着く。秦汰が住んでいる地区は貧相で寂れた建物が多いが、一駅隣に行くとまるで絵本のページをめくったかのように華々しく、騒がしい街へとその姿を変えた。秦汰は蟻の行列の様な人ごみをかきわけ、目的の店へと向かった。
 地下鉄の駅の南口から、秦汰の住んでいる地区方面に向かって大きな商店街がどすんと腰を下ろしている。歩いて向かってきた秦汰はちょうど南口の反対側の入り口に辿り着き、そこから駅方面へと歩いていく。向かって左側、化粧品店、ファーストフード店、CDショップ、洋服屋と建ち並ぶ店の隙間に、少しくすんだ灰色の階段が見え隠れしている。そこを降りていくと、シャングリラという陳腐なネオン看板が待ち構えている。秦汰はその看板の横をすり抜け、木製のドアを押す。
 軋む音と共にドアが開くと、仏頂面のマスターが相も変わらぬ調子で秦汰を迎えた。
「ようこそ、お客さん。今宵もここ理想郷で、明日に繋がる良い夢を」
 店に入る客に必ず言い放つその言葉に、秦汰は相変わらず苦笑した。
「霧さん、それほんとに寒いから」
 桐山 霧男、三十八歳バツイチ。彼はこの街に愛とロマンを求めて理想郷(シャングリラ)という名のバーを開いたはいいが、経営は殆ど火の車状態である。経営が苦しいにもかかわらず、秦汰にはいつも何か食べるものを奢ってくれた。「昔、夢を追い求めていた時の自分と重なる」といって何かと世話を焼いてくれる。人格が変わるほど毎日の生活が切羽詰っている秦汰にとっては、とても有難い事だった。彼は見かけによらず意外と器用で、料理も上手いし、ビーズのアクセサリーなんかを作らせたら唸るほどの細やかさと繊細なタッチで熊のオブジェを作ってみせる。また話術も巧みで、人をのめりこませるその技術には、本業である秦汰にとってもかなり勉強になるものであった。しかし何故客が寄り付かないかは、店の汚さが大きい要因だろうと思う。
 手先が器用なのにもかかわらず掃除は不器用で、大雑把に雑巾で拭くだけであるから、部屋の角なんかには溜まった埃が綿の様に浮かんでいる。テーブルや椅子も、亀裂から中身が漏れていたり、前の客がこぼした料理がこびりついていたりする。その原因を気づきながら指摘できない理由は、「それなら御前が掃除をやってくれ」と丸投げされてしまうからだ。以前、そう言われて掃除に半日費やしたことがある。
 それでも桐山の人のよさや人脈から常連は多く、経営も普通にしていれば毎月暮らしていける程の稼ぎはある。しかし、彼にはどうしても譲れないこだわりがあった。
 それは「服」である。桐山は、自分のファッションを最重要事項に置いていた。たとえ何があっても服だけはシミ一つない状態で保存してあるし、お気に入りは毎日のように洗濯してシワ一つ作らない様にアイロン掛けまでする。そうして毎月新しい服を買い漁るから、経営が火の車なのである。しかしそう入れ込む事はあり、彼の選ぶ服はとてもセンスがよく、また桐山の体型や顔にあっている服装だった。モノトーンで統一されたモダンなファッションは秦汰の好みと一致し、桐山の身のこなしに惚れ惚れすることもある。また、現在一張羅として愛用している、真ん中に大きなベルトがついている黒のジャケットも桐山からのおさがりである。秦汰はそのジャケットを脱ぐと、店の一番奥、ソファーが並ぶ座席に腰掛けた。
「竜二、まだですかね?」
「まだだな。今日は怜奈ちゃんとショッピングって言ってたから、帰ってくるのは六時すぎるだろうよ」
 秦汰はそれを聞くと、柱にかけてある時計を見る。時計の針は無常にも四時半を指していた。秦汰は大きくため息をつくと、机に突っ伏した。
「はは。お前も懲りない男だなぁ。竜二に誘われたら、一時間は遅れてくるのが常識だぞ」
「…そうなんですけど」
 秦汰は落胆した表情を隠さず、携帯を開く。かろうじて稼動している携帯画面に、「今日また、シャングリラで待ち合わせな」と質素で淡白な文章が映る。
「時間、決まってないんですもん…」
 秦汰はもう一度ため息を吐くと携帯を閉じて机に突っ伏す。
「なんか食うか?」
 桐山の優しい言葉に心を動かしながらも、秦汰は首を横に振った。
「一週間後、舞台なんです。まだ台詞、全部入ってないのに…」
「ならここで練習すればいいさ。台本はあるのか?」
 桐山の提案に目を丸くしながらも、手提げ鞄から台本を取り出す。
台本を渡されたのは一ヶ月前で、秦汰に与えられた配役はまたも「兵士A」だった。
「僕には与えられる名前すらもない。みじめで貧相な、ただの通りすがり」
 秦汰はふてくされたように吐き捨て、台本を机に投げつける。
「兵士Aか。それも立派な役だ。台詞は…お、でも、今回は結構あるじゃないか」
 確かに、台詞は前回と比べると増えている。鬼脚本家や鬼監督と戦っている見返りは、ほんの少しだがあるようにも思える。
「でも…俺は、せめて名前がある役がやりたいです」
 秦汰は、何も主役を張りたいという気持ちはなかった。主役に向いている顔でもないし、演技もまだまだ勉強しなければならないことが沢山ある。でもせめて、名を与えられたいという思いがあった。
「そうふてくされるな。チャンスはいつかくる。その時それを掴めるかどうかは、今どれだけこの兵士Aに打ち込めるかにかかってるかもしれんぞ。」
 桐山の説得に応じ、秦汰は渋々立ち上がる。
「何々?題名は…『ただそれを見ていた』、か」
「兵士Aは、魔女が姫を殺す為に王をだますのを見ているだけの王子に語りかける役なんです」
「ふぅん。お前のとこの劇団は、ファンタジーが好きなんだな」
 桐山は興味深そうに台本を読む。
「王:我輩の愛しい娘が、実は死んでいたと!?浅ましき怪物に身を食われ、骨を砕かれ。そして娘に姿を変えた憎き化け物を、我輩は娘として寵愛していたというのか!」
「王子は何も言いません。何故なら王子は、魔女を愛しているから」
 秦汰はそう言って、ソファーに右足を乗せて右手を大きく広げ、左手で胸の辺りを触ってみせた。
「ああ、哀れなり、コルネリア王子!狡猾で、人の心など知る由もない魔女に心奪われ、弄ばれる宿命か!実の妹よりも、虚像の愛を選ぶしかないとは、愚かな人間の性である!」
 言いながら秦汰は、自分も、家族か恋人の命、どちらを選ぶかと問われたら、きっと恋人、いや、想い人を選ぶのだろうと考えた。
「王は姫に疑いの目を向け、姫は残酷な現実を目の当たりにする。魔女は姫の絶望をディナーに、王の浅ましさに薄笑いを浮かべる。そして王子は、」
 秦汰の想い人は、今、どこで何をしているのだろう。三年前に別れた「彼」は、今も秦汰の心の中で、宝石のように煌いていた。魔女に魅せられた王子の心境である秦汰は、その王子を哀れむ兵士に心を重ね、まるで自分を軽蔑するかのように言い放った。
「ただ、それを見ていた」

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