このスレッドは過去ログです

新規投稿 一覧表示 評価順表示 過去ログ

ただそれを見ていた・五話


記事No.49  -  投稿者 : Telecastic  -  2009/02/14(土)01:18  -  [編集]
 暗闇の中で、何者かの掌が、ゆるやかに秦汰の頬を滑っていった。ゆっくりとしたその動きは、出来る限りの穏やかさで秦汰の頬を撫で、秦汰は、まるで母の膝で甘えている子猫の様な気持ちになった。これは何かの記憶だろうか、それが夢となって、今、フラッシュバックしているのだろうか。しかし、残念なことに秦汰には母にそんなことをしてもらった記憶がない。朦朧としながらも目を開くと、眼前数センチに倫子の顔があった。
「うわっ」
 さっきまで心地よい眠さに包まれていた体が一気に消え去り、秦汰は思わず飛び退いた。
「あ、ひどいなぁ。そんなことされると、さすがの私も傷つくよ」
 倫子はそういって笑う。どうやら、眠っていた自分の頬を実際に倫子が撫でていたらしい。
「いや、いきなりあんな顔近くて、しかも恋人みたいにほっぺた撫でられたら誰でもびっくりすると思うけど。しかも、昨日知り合ったばかりの人に」
 秦汰は出来る限り冷静に努めて自分の行動を正当化しようと要因を並べ立てたが、それが逆に冷静じゃないように自分でも見えた。倫子はくすりと笑った。
「そりゃ、そうよね。でも、そんなに動揺しなくてもいいんじゃないかな。御堂君って、案外かわいいところあるんだ」
 案の定からかわれ、秦汰は俯き困った様に額を掻く。倫子はまたくすりと笑った。
「じゃあ私、大学があるからもう行くね。部屋の片付けとかあるだろうからこの残骸は置いといていいよ、後で竜二達が勝手にやるだろうから。あと、自分の部屋の棚とか動かしたかったら、こいつ達起こして手伝わせればいいからね。じゃあね」
 倫子はこちらが「うん」と相槌を打つ事も許さない速さでそう言うと、いつの間に着替えたのかベージュのジャンパーを羽織り、チェーンをあしらったショルダーバッグを右肩にかけて風の様に去っていった。
「……」
 秦汰は呆気に取られていたが、やがて気を取り戻すと、床に寝ている武を見た。端整なその顔は右頬を絨毯につけていても綺麗で、静かに寝息を立てるところが更に上品さを漂わせていた。それに吸い込まれるように秦汰は右手を伸ばす、が思いとどまった。これでは、倫子と同じである。秦汰は左手でその愚かな右手を押さえ込んだ。その音、というか空気の振動で目覚めたのか、武がゆっくりと起き上がり、寝ぼけ眼をこすりながら秦汰の方を見た。
「……あ、おはよう」
「う、うん、おはよう」
 秦汰はちょっとドギマギして応える。別に意識している訳ではないが、ただなんとなくバツが悪かったので声がどもってしまった。秦汰は気恥ずかしさを必死に堪える。
「…倫子もう大学行ったのか」
 武は寝癖がついた髪を右手で豪快に掻きながら辺りを見回す、その一つ一つの仕草にも、洗練されたものを感じて秦汰は思わず溜息をついた。
「え、何?」
 武はその溜息に素早く反応する。秦汰は虚を突かれた様な感覚で、どう誤魔化そうか考えていると、武は溜息の原因がテーブル上に散乱している食事の残骸である事だと推測した様で、ニッコリと笑ってみせた。
「ああ、安心していいよ。これは俺があとでやっとくから。御堂君は、自分の部屋の片付けに専念していいから」
 武は軽い口調でそういうと、ひらひらと掌を振ってみせる。その茶化す仕草さえも無駄がなく、秦汰は勝負をする前から完全に敗北した気分になった。ゴングがなる前に、タオルが飛んできたのだ。秦汰は力なく立ち上がると、武からみえないところまで歩いた後に、大きく項垂れて溜息をついた。

 一人で延々と部屋に篭り、片付ける事数時間。しかし、ダンボールの山はまだ秦汰の視界を遮っていた。秦汰は一息つこうと、右側の壁についているパイプのベッドに頭を乗せる。昨日はあんなに楽しめそうだと思ったのに、既に言い様のない不安が秦汰の心を侵食していた。こういう気分が安定しない所が、自分の駄目な所なんだよな、と言い聞かせてみても、秦汰の心に渦巻く黒々しい感情は決してその腰を上げなかった。秦汰は、逆光で黒く翳っているダンボールの辺りを何気なく見つめながら、消滅させる事のできない憂いを持て余していた。機を見計らった様にノックが鳴る。秦汰は瞬時に気持ちを切り替え、軽い拍子で返事をした。
「俺だけど」
 声の主は武だった。台詞が言い終わると同時くらいにドアが開く。ひょっこりと顔を出した武は、洗顔をしたのだろう、寝起きよりもしゃきっとした表情で、昨日感じた形容できない魅力を纏っていた。武は未だ積み上がっているダンボールを見回し、柔らかな視線で秦汰を見下ろすと優しく微笑んだ。
「入っていい?」
 秦汰はいきおい頷き、ベッドの端に体を寄せて武を招きいれた。武はするりとドアを抜けると音も立てずに閉め、ベッドに腰を降ろす。秦汰はその反対側に移動した。
「結構片付いてるなぁ。ずっと作業してたのか?」
「あ、うん。まあね…」
 心なしか口調がどぎまぎしているのを、武も感じ取ったのだろう。二人の間に少し、ぎこちない空気が漂い始めた。秦汰はもう気まずくて目を合わせることは愚か、顔を上げることもできない。これ以上劣等感を刺激されるのは御免だった。そんな秦汰の心情を知ってか知らずか、武は目の前に置かれた白の丸いテーブルの上に置かれている台本を手に取った。
「『ただそれを見ていた』?へえ、これが舞台の台本か。俺始めてみるよ」
「ああ、うん。それ、もうすぐ公演になるやつで」
 秦汰は自分のテリトリー内の話題に触れられた事で元気を取り戻し、顔を上げて積極的に話す。もしかしてこれは相手の思惑に見事はまっているのだろうか。だとしたら、もう立ち直れないかもしれないと秦汰は危機を感じ取った。が、武はその辺りを刺激する事はなく、舞台の台本を読み始めた。
「…ふーん、何か、ちょっと複雑な話なんだなあ。要するに王子は、家族よりも愛情を取ったって事だろ?」
「うん。愛したところで報われないとは知りつつも、それでも愛してしまうっていうどつぼにはまってるんだよ、王子は」
 劇の事になるとついつい饒舌になり、語り始めてしまうのは自分の悪い癖だった。そうして今まで一体何人の人間に引かれていた事だろう。周りの役者仲間にも引かれたことがある。自分はどうにも、頭の中の物語や空想を現実と結びつける癖があった。今回もまた引かれてしまっただろうか、秦汰は冷や汗をかいたが、武はその真剣な表情を変える事なく話を続けた。
「そうか。まあ、わからないでもないけどな…。もし、御堂君ならどうする?」
 いきなり話を振られて秦汰は戸惑う。家族より、愛を選ぶ。それも、儚い恋を。独りよがりだとは知りつつもはまってしまう王子は、まるで初恋時の自分の様で、秦汰は小さく頷いた。
「うん…。俺も、多分王子と同じ事になると思う。儚い恋だって、希望があまりにも小さいってわかってても、挑戦せずにはいられないからさ」
「そうか…そうかもしれないな」
 武は真剣にその答えを受け止める。なんだか意外で、秦汰は呆気に取られたが、すぐに気を取り直して、今度はこちらから話を振った。
「じゃあ、杉本君はどうなの?もし魔女に恋をしてしまったら」
 秦汰がそう聞くと、武は更に真剣な表情になり、眉間に皺まで作ってうーんと唸った。
「俺は、そうだな…」
 顎につけた手を離すと、秦汰の方を見つめて言い放った。
「魔女に恋をしない」
 その言葉は秦汰の心に大きなショックを与えた。ドキリ、と鼓動が騒ぐ。一体どういう意味なんだろう、と勘繰るが到底応えは出せそうにない。武は尚も秦汰を見つめる。その瞳には、叙情的な光が満ちており、また、影には淫靡な揺らめきも感じられた。気のせいかもしれない、それこそ、魔女の魔法にかけられているのかも…秦汰は平静を保つ。
「どういう意味?」
 やっとの思いでそれだけ聴くと、武は元の表情に戻り、やわらかく笑った。
「嘘をつく奴は嫌いなんだ」
 成る程。そういう意味か、と秦汰は内心胸を撫で下ろす。武はそれを感じ取ったのか、ゆっくりと立ち上がり、ドアへと歩いていった。
「じゃあ、俺はこの辺で。手伝ってほしい事ができたら下にいるからいつでも呼んでくれ」
「あ、うん。有難う」
 武はニッコリ微笑むと、ドアを開いてするりとすり抜けた。ドアが閉められる直前で止まり、ひょっこりと顔を出す。
「君の事、呼び捨てにしてもいいかい?」
 御堂、と呼ばれるのには慣れている。何故だか自分は、親しくなった友人からはそう呼ばれる事が多かった。当然の事かもしれないが、こちらは相手を君付けしているのだ。それならこちらも呼び捨てにすればいい、と思うだろうが、なんとなくそれは敬遠していた。それは、おそらく秦汰の内面に根付いている劣等感がそうさせているんだろうし、誰と居ても心が安らがない空虚感が、友人と自分との間を隔てているのだろうと自覚していた。秦汰は軽い気持ちで頷いた。
「うん、いいよ」
 秦汰が今までに呼び捨てにした友人は二人だけだ。一人は勿論竜二である。
「サンキュ。ならお前も、俺の事呼び捨てにしてくれていいから」
 秦汰は軽く頷く。が、勿論、呼び捨てにする気は毛頭なかった。武には余計に、劣等感を刺激される。自分の弱さや醜さを見せ付けられながら生きていけるほど強くはない。秦汰は武に見えない右の拳を握り締めた。
「じゃあ…また」
 武は目を伏せると、秦汰の名を呼んだ。
「秦汰」

 結局荷物が全て片付いたのは夜七時を過ぎていた。その頃にはリビングもすっかり綺麗になっており、竜二がコンビニ弁当をつついていた。秦汰はそれに紛れて食事を済ませ、風呂に入り、新しいベッドに横になった。目を瞑っても、数時間前の武との会話、特に「魔女に恋をしない」という発言ばかりが頭の中をめぐって、その発言の真意を探るのに必死になっていた。気がつけば時計の針は深夜一時を指しており、秦汰はばかばかしくなって溜息をついた。やがて、ゆるやかな眠りに誘われていった。

 携帯のアラームで目を覚まし、寝ぼけ眼をこすってドアを開くと、正面のドアが空いていた。確かここは、空室…
「!?」
 無機質な四角形の空間に、生命の息吹が吹き込まれつつある。一昨日荷物を運んでくれたばかりの桐山の知り合いが、また荷物を運び入れており、その中心に一人の男性が立っていた。こちらに背を向けているので顔は見えないが、身長は180を越えているように見え、体格もがっちりしていた。黒い短髪がゆるく逆立っている。また、武の様な人がきたのか…というか、俺が引越ししてきてからまだ三日も経ってないのに!秦汰は混乱していた。
 やがて、男がゆっくりとこちらを向いた。荷物の置き場所を指示している。その顔は爽やかな笑顔で満ち溢れており、丸く綺麗な瞳が幼げな雰囲気を醸し出していた。男はこちらに気づくと、その爽やかな笑顔で軽く会釈する。武とは違う、純真無垢な笑顔だ。
「はじめまして。俺、今日からここに引っ越してきた大下 晴樹って言います。よろしく」
 秦汰は、自分の心臓が大きく揺らぐのを感じた。

COPYRIGHT © 2009-2024 Telecastic. ALL RIGHTS RESERVED.

作者  Telecastic  さんのコメント
チャーリーってきっと優しすぎるんだと思う。だからいつも人に利用されて、結局音楽に逃げるしかなかったんだろうなあ。でもその音楽すらも利用されてしまえば、もう麻薬に逃げるしかないのはしょうがないよなぁ。

[作品の感想を閲覧する ・ 感想は投稿できません]