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水色の太陽 第三章


記事No.158  -  投稿者 : one  -  2011/04/25(月)09:25  -  [編集]
第三章

『月光に惑う光』

太陽は眩しかった。
大体家を出たのは7時前。雲一つ無い空は凜と讃えている。
それはまるで、彼の心を写しているようでもあった。

朝日武人は最近とても気分が良い。何故そうなのかはイマイチよく分からなかったが、友達にも親にも先生にも香奈にも「なんか気持ち悪いくらいに上機嫌だな」と言われていた。そこまで言われると、やはりそうなのだろうと武人も思わざるを得ない。
普段はあまりしない朝のジョギングを今日急に思い立ったのも、その精神状態からかもしれない、とアスファルトを蹴りながら武人は考えていた。肌を擽る早朝の風が心地よい。

家に帰ると一度シャワーを浴びて汗を流した。
パンツだけ穿いて脱衣所を出ると妹の優美華が起きて来て鉢合わせた。が優美華は男の裸体に女の子らしく悲鳴をあげるどころか、ごぼうでも見るような目で武人を見て「おはよ」とだけ言ってキッチンに向かった。長いツインテールが尾を引く。
武人は優美華の背中を見送りながら「あぁ、おはよー」と言ったが何となく虚しい。

脱ぎ捨てられた衣服やお菓子のゴミ、漫画などでめちゃくちゃな自室に帰って、多分いつのまにか母親が畳んでくれたのであろうカッターシャツとズボンを拾いあげ、それをさっと纏ってベルトを通した。勉強道具と部活道具の入ったエナメルバッグを持って朝ご飯を食べにキッチンに向かう。

「あんたそろそろ部屋、片付けなさいよ。立つ場所も有ったもんじゃないんだから。」
エプロンで濡れた手を拭きながら、母の喜美子は呆れたように言う。やはり部屋に入っていたらしい。
「へ〜い。そのうちやっときまーす。」
武人は食卓の優美華の隣の椅子に座りながら気の無い返事をした。リビングのテレビが今日の天気予報を告げる。降水確率は0%だそうだ。
「それからあのどうしようもない雑誌の山、もう少し見えない所に置いときなさい。」
今焼き上がったハムエッグを武人の前に置いて喜美子は声のトーンを落として言う。武人はそればかりにはしまったといった顔をした。

朝食を終えると洗面所で歯磨きをして、ハードワックスで髪の毛を立ち上げた。このつんつん具合が結構お気に入りだったりする。
そのまま玄関に行って、靴を履き変える。スニーカーの靴紐を結んでいると喜美子が来て「気をつけて行くのよ。帰りは早くね。」といつも通りの言葉を言う。武人もいつも通り、「行ってきま〜す」とだけ返す。

学校には電車で向かう。ローカルの私鉄で、武人はこれに乗っている15分がとても好きだった。季節に合わせて変わる景色と、車内の快適な空間。それらは武人の心を和ませた。
通勤ラッシュとは時間がズレているので、心置きなく座っていられるのも良いところだ。
家から10分程自転車を漕ぐとその小さな駅に着く。
自転車を自転車置き場に停めてプラットフォームに上ると、そこには見慣れた姿があった。香奈だ。
「武人。おはよ。」
「おっす!」
香奈とはいつもここで待ち合わせている。

香奈と武人は実は小さい頃からの幼なじみだった。家が近所だったということもあったし、妙に気が合ったという部分もあった。ただ、小さい頃から互いに互いを認め合い、最高のパートナーとして認識していた。
勿論武人にも香奈にも多くの同性の友達がいるが、武人にとっての最高の理解者は香奈であり、香奈にとっての最高の理解者は武人だった。
回りから見たら二人の関係は明らかに異常で、彼達自身も自分達が少しおかしいというのは気が付いていた。だから彼らはそんな二人の関係に区切りを付けた。

実際二人の付き合いとはてんで綺麗なものだ。街で手を繋いでいちゃつく訳でもなくキスの一つもせず、ましてセックスなど考えた事も無い。武人は性欲は旺盛な方だったが、香奈に対してだけはそういった思いを抱くことはなかった。
悩みがあったらそれを二人で共有し、嬉しい事があったらそれをまた二人で共有する。それだけの関係。
武人はそれで満足していたし、香奈もそうだと武人は確信していた。

電車の中で他愛のない話をして約15分、学校の近くの駅に着いた。駅員には気前よく「ちわっす!」と挨拶をする。武人の日課だ。日替わりで三人いる駅員も武人の顔はもう覚えているようで、ちゃんと「おはよう。今日も元気だね。」と返してくれる。武人の後ろで香奈も小さな会釈をする。これもいつもの風景。

学校に着いたら香奈とはクラスが違うので教室の前で別れた。「じゃ、また!」と言って手を振る。香奈はそれに「バイバイ」と返した。教室の中で仲の良い男子達が武人を囃し立てていたが、武人は全くもろともしていない風だった。

「いいよな〜、香奈ちゃん。俺もあんな子と付き合いたい。」
机に座って教科書の整理をしていると、そいつは前の席に反対向きに座り、言った。辻岡辰己というやつだ。サッカー部。武人は辰己のことを『たつ』と呼んでいた。明るい茶髪で耳にはピアスという、見た目はとてもチャラい奴だが、武人はこいつを気に入っていた。
「そんな良いもんじゃないだろー。」
「いやいや!香奈ちゃんはヤバイだろ!頭は良いし走るの速いし可愛いし…。って言えば言う程高嶺の花の気がしてきた…。」
辰己はひとりでに肩を落とした。武人は、あははと笑う。
「やっぱり頭のいい子と付き合うには頭が良くないといけないのか?武人?」
甘えたような声で下から覗き込むように辰己は言う。別に可愛くないからやめてくれと言いたい。
「ばーか。たつじゃ頭どうこうの前に論外だろ。」
武人が何か言う前に横から鋭利な槍が飛んできた。それは見事に辰己に突き刺さる。
「てめぇアキラ、それどういう意味だよ…。」
「そのまんま。」
聞いて辰己はうぜー!と叫んでアキラと呼ばれた奴に飛び掛かった。が、ひょいと避けられてそのまま隣の机に突っ込んで、その際頭を打って一人で悶えだした。
教室全体が大笑いしていた。

武人はいつもこの二人とつるんでいる。辻岡辰己と霜野彰。アキラはバスケ部だが、身長は普通だ。普段は辰己と武人の暴走を食い止める役割をしている。
三人共部活動は違うし、全然タイプが違っていた(武人と辰己はお調子者という点に関しては共通していた)が、その異種であるという事で寧ろバランスがとれる関係となっていた。

その日のホームルームで、先日行った模試の結果が返って来た。
武人が自分の成績の書いた紙を見ていると、辰己がやって来た。
「ヤベェ。さすがにそろそろヤベェ。俺が実はただのアホだということが浮き彫りにされてきた。」
「知ってるけど。」
いつのまにか隣に来ていた彰がそれに釘を刺す。
紙を見ると、見事に赤い字ばかりで順位も下から数えて数番目といったところだ。
「さすがたつ!これは逆に凄い!」
武人と彰は二人で笑った。
「お前らはどうだったんだよ…。あんまり聞きたくもないけど…。」
武人は彰と顔を見合わせた。
「4番。」
「6番。」
あー、負けた〜、と言ったのは彰だった。武人は小さくガッツポーズをとる。
「お前らは良いよ…。」
辰己は終始つまらなそうな顔をしていた。

武人は陸上だけでなく勉強に於いてもとても優秀だった。それは武人が生来目標としている事に起因する。
武人の目標とは、すなわち『総てに於いて凡庸でない』ということ。
それは『天才でありたい』という訳ではなかった。自分が凡人であることは重々理解していたし、なにより何か一つに秀でただけの天才には、イマイチ魅力を感じなかった、という部分があった。
とにかく武人は『普通以上』にとても憧れた。
そういう訳で武人は勉強も陸上も人間関係も全て蔑ろにしなかった。

そんな武人にとって、他校の一つ先輩である進藤夕という人間はとても魅力的だったらしい。

武人が進藤夕を初めて視認したのは一年の頃だった。
その年の県総体100m決勝で、二年にして十一秒の壁を乗り越えた夕はかなり話題になっていた。武人も短距離に従事する者としてその試合は見ていた。
筋肉隆々の、言ってしまえばゴツイ男ばかりが立ち並ぶ中、彼はただ一人だけ明らかに異質のオーラを纏っていた。恐らく、その場に居た誰もがそこに並ぶ七人は、彼を引き立たせる為だけにある肉人形としか思えなかっただろう。それほどに彼、進藤夕は異質だった。武人はスタンドで一人、自分の直属の先輩もその場にいるにも関わらず、じっと夕だけを見据えていた。
華奢な訳では決してない。スプリンターとしての足、男の躯。顔こそ中性的に整っているが、そこにいるのは確実に男だ。だが、武人は何故か彼を『キレイ』だと感じた。何が彼をそこまで美しくするかは、洞察力に長けた武人でも分からなかった。

その試合で夕は三位になった。

それから大会や強化練習会などでちょくちょく夕を見かけるようになった。いや、意識するようになった、というのが最も正しいか。
あまり団体行動をしているのは見なかったが、結構顔も広いようで、後輩への指導力、効率性、リーダーシップ、カリスマ性、どれをとっても一流。武人は彼こそ自分の目指すべき人物だと確信した。それからひっそりと夕を目標とし、彼に少しでも近付けるように陸上に励んできた。

そんな彼との関係が最近とても近くなった。
一時は家にまで上がってしまって、その時はどうしようかと思った。あまりにテンションが上がってしまってどんな話をしたかもあまり覚えていない。なんだかとても気掛かりな事があった気がするのに、イマイチ思い出せない。
夕と話せるようになると、彼は意外に気さくで、物知り。少し可愛い面もある。ちょっとしたスキンシップですぐ顔を赤らめるし、素直じゃない。でも彼のそういう人間めいた部分が武人は特に気に入っていた。

とにかく、武人は夕をとんでもなく尊敬していた。



ある土曜日、部活も終わってあのゴチャついた部屋でのんびりしていると夕の直属の後輩である前山からメールが来た。夕を怒らせてしまったと思ったあの日、あのあと前山とは中々仲良くなってメールアドレスも交換していた。
メールの内容はこうだった。

『明日進藤先輩にタイマンで走り教えて貰う約束したんだけど、朝日も来ない?ちょっと一人って気まずいんだよ〜。』

何が気まずいんだよ!そんなん最高だろ!!と本気で突っ込みたかったが、そんな気持ちとは裏腹にそのメールを見た瞬間『行く!!!!』と返信してしまっていた。すぐに『こっちの競技場だよ』とメールが返って来たが正直そんな事はどうでもいい。ちょっと電車代がかかるが、それよりも進藤先輩に会えるのはとても嬉しいのだ。武人は嬉しすぎて部屋の中で唯一死ぬ危険性の無いベッドにダイブした。

武人はその事をすぐに香奈に報告した。ベッドに横になってメールを打つ。
『明日進藤先輩と特別練習!』
送信ボタン。
しばらくして携帯のバイブが鳴った。
『良かったじゃん。憧れだもんね。』
『香奈も行く?』
『遠慮しとく。私そんなに仲良くないし…。』
『そっかぁ。まぁ女子一人も気まずいしなー。じゃあ楽しんでくるよ!』
『練習でしょ?』
『でも楽しみだ。』

そこでメールは切れた。二人の間ではメールをいきなり切ることなど日常茶飯事なので、武人はそれを不思議な事だとは露も思わなかった。
とにかく、明日の事を考えるとそれだけで武人の心は踊った。

翌朝、武人は目を覚ますとすぐに準備を始めた。窓から空模様を確認すると、まぁぽろぽろ雲は見えるが雨が降る気配は無い。武人は内心でガッツポーズをした。
適当に朝食をとると駅に向かった。いくらか自転車を漕いで、駅に着いたらいつもとは反対側のプラットフォームに昇る。そしていつもとは反対側から来る電車を待った。
電車に乗って暫くすると前山から『駅で待ってるから一緒に行こう』という内容のメールが入った。それに『わかった!』とメールを返して、武人は見慣れない景色が後ろに流れて行くのをなんとも言えない高揚感を抱きながら眺めていた。



「で、どうしてお前が此処にいるんだ…?」
競技場で先に待っていた武人を見た夕は開口一番そう言った。
「前山が先輩と二人じゃ嫌だって!」
武人は笑顔で返す。
「どういう意味だよ、前山。」
夕は前山をギロリと睨んだ。武人の隣で何も知らない振りをしていた前山がビクッと肩を震わす。
「いやいや!別に嫌なんて言ってないですよ!ただ朝日も居た方がいいかな〜、なんて…。」
夕は訝しげな顔をして前山の方をじっと見た後、後ろを向いて頭を掻きながら、「こんな欝陶しい奴呼んで何になんだ」と小さく呟いた。
「あ、先輩!酷いっすよー、それ!俺先輩に会いにわざわざ高いお金払ってまで来たのに!」
武人はそう言いながら、夕の耳の後ろが紅潮しているのを見逃さなかった。

管理事務所に競技場の使用料を払って場内に入った。前山いわく、本来部活動として使用するならば無料でここは使用出来るらしい。なんでも去年の先輩がインターハイで上位入賞を果たしたことで、市がそう配慮してくれたという。
流石に日曜日なので競技場には誰もいない。この400mトラックを今日は三人で貸し切りらしい。武人はすごくうきうきした。

「先輩よくこういう事するんすか?」
アップがてらジョグをしている時武人は夕に聞いてみた。
「あんまりないな。そもそも今日はな、総体も近いのに前山とのバトンがイマイチ上手く行かないから来たんだよ。」
夕は言って前山を少し睨んだ。前山はまたびくびくしていた。
「成る程バトン練習っすか!」
「こいつたまに俺に追いつけない時があるからな。」
「…進藤先輩の加速が早過ぎるんです…。」
前山はもはや泣きそうだ。
「今日はそれだけっすか?」
「100の調整もするつもりだけど。ちょっとくらいなら見てやるぞ。」
「やった!お願いしまーす。」
武人はそう言って、不意に夕の肩に手を回した。夕はすぐに「やめろ!馬鹿!」と言ってそれを振りほどいて、一人ジョグのスピードを上げた。その時やはり夕の首筋や耳は赤く見えた。多分、前から見たらもっと顕著なのだろう。
武人は夕のそのすぐ赤変する様子が結構好きだった。まさか夕に「先輩顔赤いっすよ」なんて言おうものなら声を大にして否定するのが目に見えている。

ミディアムより若干短い髪は綺麗な黒髪だ。夕はいつもシルバーやブラック、ホワイトのウェアを着ているのでその色合いに矛盾しない。
武人は走りながらずっと夕を眺めていた。ハーフパンツから覗く足は確かに筋肉質だが、関節の部分は凄く細い。その部分で筋肉自体がキュッと締まっているように見える。何はともあれとても綺麗な肢体だ。見とれている内にジョグが終わった。

体操を各々やって、基本走に入る。その際武人は夕からいろいろアドバイスを貰った。
基本走を終えて流しを一本走ってようやくウォーミングアップ終了。ここまでで大体小一時間かかる。

この季節になるとアップが終わると大分暑いので、大程の選手はもっと動きやすい服装に着替えるのが一般的だ。武人も既にハーフパンツの下にハーフタイツを穿いていた。なので休憩中にさっと着替えた。ハーフパンツを脱ぐだけなので簡単。
夕もいつのまにかショートタイツに着替えていた。これも恐らく下に穿いていたのだろう。ショートタイツはほとんど丈の無いタイツなので日焼け跡がとても目立つのが難点だが、夕の足は綺麗に一色なのでそれを頻繁に穿いている事が予想出来た。

中学時代にはこの『タイツ』にすごい抵抗を抱くものだ。なんせとても股間の膨らみが目立つ。
タイツの下にパンツなどは基本穿かないし、まぁ一般的な感覚ならそれは、パンツ一枚で走っているのとそう変わらない気分になることだろう。
しかし高校に来ると皆が皆タイツといいランパンといい穿いているものなので慣れてしまう。むしろタイツがとてもカッコイイとすら思うようになる。
武人も今のタイツは結構気に入っていた。

「ちょっとスタートやるか。」
さっさとスパイクを履いた夕がそう言って立ち上がる。すぐに前山が「ブロック出しますか?」と聞いた。夕はちょっと考えて、「人数分でいいか。」と答えた。それに了解の意を示したら、前山は武人に手伝ってくれと頼んだ。武人はすぐにOKした。

スターティングブロックは100mゴール付近の器具庫にある。武人は前山とシャッターを開けてそこに入った。地面はコンクリートで固められているので、スパイクで歩くとガチガチ音が鳴る。
ブロックを荷車に乗せていると前山が言う。
「お前なんか凄いな。俺進藤先輩にあんな風には絶対絡めないよ。」
武人は意味が解らないと言う風に前山を見る。
「俺、なんかあの人には壁があるような気がする…っていうか、わざと壁を作ってるんじゃないかって思う時があるんだ。…面倒見も良いし喋り難いわけじゃないんだけど、深くまでは絶対入って来ないし、入れさせもしない。」
「そうなのか?俺はあんまり思わないけどなー。」
「そりゃお前はいつも一緒にいるわけじゃないから解らないだろうけど…。」
武人はその前山の言葉が引っ掛かった。なんだかとてもムカついた。同時にとても寂しくなった。
自分はあまり先輩の事を知らない。あまりどころか、全然だ。考えてみれば会って話したことも数える程だし、何より普段の姿を知らない。でも、前山はそれを知っている。
武人はいきなり、夕と違う学校である事がとても口惜しく感じた。
先輩と同じ学校だったら、もっと話して、もっと仲良くなって、もっといろいろ教えて貰って、もっと…、もっと?
もっと、何をするのだろう。何がしたいのだろう。あれ?なんだっけ…。
武人は今一瞬自分の脳裏に過ぎったイメージの正体を突き止め兼ねていた。
「…朝日?どうしたんだよ、恐い顔して。」
気が付いたら、前山が顔を覗き込んでいた。武人はびっくりして「わ!!!」という悲鳴をあげて今持っていたブロックから手を離してしまった。前山が「あぶない!」と言って手を伸ばしたのも遅く、ブロックは器具庫中に鈍い金属音を響かせた。

「…うるせ〜。」
「…うるせ〜。」

思いがけず声がハモって、武人と前山は顔を見合わせて笑った。武人は落としたブロックを拾いあげて前山に向かって言う。
「先輩ってそんななんだ。」
「うん、大体。…あ、でも最近はちょっと元気かも。今までなら絶対練習に俺を誘ったりしなかったからさ。」
「へぇ〜。」
武人はそう相槌を打った。依然、心はもやもやしている。

ブロックを荷車にのせてスタート地点に持っていくと、夕は不機嫌そうな顔で待っていた。
「おせーよ!ていうかなんか変な音しなかったか?」
武人と前山は笑って「ブロック落としちゃって。」と正直に言った。夕は軽く呆れていた。

スタートの練習のついで、夕にフォームや中間疾走、フィニッシュなど、いろんな所を見てもらった。アドバイスはどれも適確で、しっかりとした見本をみせてくれる。加えてその理論までも教えてくれた。武人の顧問は口で言うだけでその辺のことは一切教えてくれないし、先輩に至ってもただ漠然としていて陸上にそこまでの理解を持っている人は居なかった。夕こそ今まで見てきた、先輩を含めた教師の中で最も優良な人員だとすら、武人は感じた。ますます武人は夕に対する尊敬を強めた。

二人がリレーの練習をしている時は、バトンパスの調子を武人がみてやった。確かに最初の頃は三回に二回は前山が追いつけないという状態だったが、しっかり待機距離や風を考えたら、大体成功するようになった。
夕がその事で武人に「お前のおかげだな」と小さく言ったので、武人はそれが凄く嬉しかった。

練習が大体終わりダウンに入ろうという時になって、武人はまた淋しい気分になった。楽しい時間はすぐに過ぎる。夕とはこれでまた当分お別れだ。
走っている最中もいつものようには口数が増えず、当の夕に「どうした?」と声をかけられた。
「先輩と次会えるのは総体っすね…。長いなぁと思って…。先輩と会えないのは寂しいです。」
武人は基本隠し事をしない性質で、心境すらもぺらぺら喋る。それを聞いた夕はまた赤くなっていて、「な、何言ってんだよ!」と取り乱していた。
武人はその様子が可笑しくて、ちょっと笑って「先輩顔真っ赤っすね!」と言った。夕はすぐに「そんなわけねぇだろ勘違いすんな!!あれだ、あれ!日焼け!…ったく馬鹿な事言ってないでさっさとあがるぞ…。」とごまかしていた。見事に予想通りの反応で武人はまた笑えた。

全部終わって競技場に三人で挨拶をした時、武人はまたさっきの前山の言葉を思い出していた。
『お前はいつも一緒に居るわけじゃないから解らない』
その言葉を思うと、夕の事を何も知らない自分が憎らしく感じる。もっと知りたい、もっと居たい。そう思った時、武人はある事を思い付いた。

「先輩、今からまた先輩のお家お邪魔して良いっすか?」

その唐突な質問に荷物を纏めていた夕は驚いた顔をして、しばらく考えてから「親いるぞ」と言った。
「俺は構わないっす!」
武人がそう答えると、夕は武人を見ないように「別にいいけど。」と小さく呟いた。

競技場で前山と別れた後、二人は夕の家路に着いた。
空に張った薄い雲が日光を適度に分散し、心地良い抱擁感を与える。夕の家を訪ねるのはこれで二度目だが、起伏の多い町並みを歩きながら武人はあの時とは違ったある種の緊張と嬉しさの入り交じった複雑な心境を抱えていた。
天候の気持ち良さとは裏腹、内心はそのもやもやがなんだか気持ちわるくて、それを紛らわすかのように武人は夕の家まで終始喋りっぱなしだった。
部活の話、学校の話、テレビ番組やドラマ、いろんな話をした。
一方夕は武人のマシンガントークに自転車を引きながら適当な相槌を打ち、珠に話に突っ込んで来た。大程の話題には通じているようで、武人も無理なく話が出来た。
ただ前山が言っていた事を考えると、確かに夕はなんだか、他人との関係に線を引こうとしている、ような気がして来た。
実際自分の話は一切しないし、武人自身についても何も聞いてこない。目線は武人を見ていても、何か別のものを見ているようにすら感じる。
しかしそれらには一切の確証が無い。前山にああ言われた為にそう意識してしまっている、と考えた方が合点が行く部分も多いのだ。
途中通り掛かりのファーストフード店でハンバーガーを買って、歩きながら昼食にした。

そうこうしているうちにあの小洒落た小さな家に到着した。

夕が自転車を片付けていると家の扉が開いて、中から三十歳程に見える女性が現れた。
長い茶髪は綺麗なストレートで、服装には気品を感じさせた。その雰囲気はどこか夕に似ている。どうも今から外出するようだった。
その女性は夕を見つけると「あら夕、おかえり。」と言った。すぐに夕の後ろで待機していた武人に目を移すと上品に微笑んで、「こんにちは。夕のお友達?」と聞いた。武人がそれに挨拶を返すと、すかさず夕が口を挟んだ。
「後輩だよ。なんか家に来たいっつうから連れて来た。」
「あら後輩さん。珍しいわね。母さん今から買い物行くから。多分帰りは夕方くらい。お昼は適当に食べておいてね。」
「もう食ったよ。」
「じゃあ調度良いわね。それじゃ行くから。」
そう言うと夕の母親は武人に「ゆっくりして行ってね。」と言って歩いて行った。
その背中を見送って武人は口を開く。
「先輩のお母さん若いんすね〜。俺の親なんか既にババアっすよ。」
「若いか?」
「だってまだ30台でしょ?」
「いや、もう44。」
「え!?」
武人はその言葉に驚愕した。ハッキリ言って40台には見えなかった。というか44なら42の自分の母親より年上ではないか。
「…世の中って不公平だ…。」
武人はボソッと呟いた。夕は意味が分からないといった顔をしていた。

夕の父親も何の用事か知らないが朝から出ているらしく、結局その小さな家は武人と夕の二人きりになった。
あの整頓された玄関からすぐの階段を登り、二人は夕の部屋に入った。中は以前と変わらずよく片付けられている。武人は「おじゃましまーす」と言って部屋に入ろうとした。しかし、夕は武人の入室を拒むかのように部屋の前で武人を制止した。
「ちょっと待て。」
「なんすか〜?ここまで来て『帰れ』は無しっすよ!?」
「違う。ちょっとここで待ってろ。」
そう言うと夕はおもむろに自室のドアを開けて部屋に入った。
武人は一人ぽつりと廊下に取り残されて、夕の行動を訝しく思いながらドアに取り付けられた金のプレートを見つめるしかなかった。
その間部屋の中で何かごそごそやっている音が聞こえて、しばらくしたら夕が大きめのバスタオルを持って出て来た。
「お前、シャワー貸してやるから浴びて来い。汗くさい。」
そして無表情にそう言い放った。
武人はそれに少しショックを受けて「マジっすか!?」とか言いながら自分の纏っている衣服に鼻を近づけてみる。…確かに臭う、気がする。
「どうせ着替えはある程度持ってるだろ?」
「まぁ下着とランシャツは有ります。ジャージも。」
「じゃあ貸さなくて良いな。シャワーこっち。付いてこい。」
言って夕はまた階段の方に向かった。武人は言われた通り付いていく。
バスルームに着いたら、夕は「シャンプーとかあるの使えばいいぞ」と言ってそのまま武人一人を残して部屋に帰った。
武人は何か言う間もなく放り出されて呆然としていた。とりあえず着ていたランシャツとハーフパンツを脱いでハーフタイツも脱いだ。脱いだものはエナメルバッグに突っ込んで、洗い場に入った。
とても綺麗なバスルームだったが、少し小さい気もした。浴槽も何だか小さい。武人の家の風呂はしっかり足を伸ばして入れるサイズなのに比べ、夕の家のそれはぎりぎり伸ばし切れないような大きさに見えた。
シャワーの摘みを回すと最初冷水が出る。その辺は自分の家と同じで少し安心した。

シャワーを浴びながら武人は物思いに耽っていた。
自分はなぜ、今日先輩の家に来たのだろう。
『何をしにきた?』と問われた時、胸を張って答えられる理由が無い。『先輩の事をもっと知りたくなった』というのも詭弁だ。そもそも何故自分がそんなにも進藤夕の事を気にするのか、そこが分からない。
最初のうちは、ただの尊敬だった。いや、違うかも知れない。分からない。
さっき頭を過ぎったイメージ。あれは一体何だったのか。それも分からない。
自分の制御下にあるはずの自分の心が全く見えない。
…気持ち悪い。
熱い水滴が武人の肌を打つ。


借りたバスタオルで頭を拭きながら、夕の部屋に戻った。
ドアを開けると、夕は何かを机の引き出しにしまった所だった。同時に「もう上がったのか?早いな」と言って立ち上がり、
さっきのとは違うバスタオルを掴むとこちらに歩いて来た。
武人はその一連の動作が少し慌てているように見えて、不思議に思った。
「俺もシャワー浴びてくるからちょっと待っててくれ。それからなんでも触らないようにな。」
すれ違いに夕はそう言って階段を降りて行った。
また武人は一人残されて、少し困った。未知の空間になんの説明もなく立たされた時、人は困惑する。何をすべきか全く判断出来ず、まるで路頭に迷う子供のような気分になる。その手にあるのは、無限のような時間だけ。武人もそんな気概だった。
取り敢えず床にストンと座り込んで回りを見た。以前来た時とほとんど変わらない。必要最低限の家具が整然と並ぶ。変わっているのは壁に立て掛けられたアコースティックギターが少し、前より傾いているくらいだ。
武人はそのギターに手を伸ばした。むやみに触るなとは言われているが、そのくらいは良いだろう。
1番左の太い弦を弾く。弦は低い重低音を鳴らし、その音が静かな部屋に印象的に響く。音が消えたくらいに、武人は今度は全部の弦を一気に引っ掻いてみた。すると全ての弦が、ジャーン、という耳に心地の良い和音を組み立てる。武人はその音に聴き入った。とても綺麗な響きだ。
あんまり触っていると夕に怒られそうなので、ギターに触れるのはそこまでにした。そしてまた武人は路頭に迷った。

しばらくぼ〜っとしていると、ふとさっきの夕の様子が気になった。
武人がこの部屋に入って来た時、夕は何かを見ていた。そしてそれを慌てて引き出しにしまったのだ。
あれは、一体なんだったのか。
武人は必死に記憶を掘り返す。
…そう。あれは本だった。サイズは大きく、厚さもあった。…まるで、アルバム、のように。
そう思い立って、武人は以前夕の家を訪れた時のことを思い出した。確か、夕はこう言った。

『アルバムは無い!雑誌と一緒に捨てちまった。』

本当にそうなのだろうか。
実は卒業アルバムはまだ持っていて、理由は分からないが夕がそれを自分に隠したのではないか。
もしそうなのだとしたら、そのアルバムは、夕にとって他人に見せたくないもの、或は、自分に見られたくなかったもの…ということだ。
つまり、あの鍵も何も付いていない軽装の引き出しの中には、夕の秘密が隠されているのではないだろうか?
武人はそう思った。
しかし、今の推理はあくまで推論。実際にはどうか分からない。しかし、武人はとても気になった。
机の前に移動し、引き出しを見つめる。
動悸が早くなる。どうしてだろう。
この中のものが凄く見たい。でも、他人のプライベートに無断で入るのは良心が痛むし、何より、武人はとても怖かった。
この中を見てしまうと、後戻りが出来ない気がする。夕の事を知りたくてここに来た。でも、知ってはいけないものまで知ってしまう気がする。

…武人は葛藤の末、その引き出しを引っ張った。
その中には、あった。
武人の推論は当たっていた。

表紙に『○○中学校○年度卒業アルバム』と大きく書かれた厚手の本が、そこにあった。
冷や汗が一滴頬を伝う。
武人は内心心を痛めながら、そのアルバムを手に取り、開いた。
最初のうちは、普通のアルバムで変わった所は何もなかった。
しかし、数ページめくった所で、ある『異常』が武人の目に飛び込んで来た。

…写真が切り抜かれている。

しかもそれは一カ所ではなく、あるクラスのページに多数固まっていて、後ろのページにもいくつかあった。
武人はその惨状に驚愕した。
切り抜かれているのは決まって二人分で、恐らくそのうちの一人は、夕自身だろう。
アルバムの何処を捜しても、夕は何処にも居ない。アップの顔写真も切り抜かれている。
…じゃあ、もう一人は?
顔写真が切り抜かれているのは夕だけだ。しかし、確実に切り抜かれたスペースは二人分。いつも夕の隣に居た誰か、が居るはずだった。
しかし、武人はすぐにその『誰か』が分かってしまった。その人は、顔写真はとても目立つほどなのに、普段の写真の中には何処にも居ないのだ。つまり、彼が夕の中学時代、いつも夕の隣に居た人物。
名前は、『村雲 亮介』。

武人はそっとアルバムを元あった状態に戻した。

誰も居ない空間の中、武人は考えた。が、全てに於いて答えは出ない。
何も分からないのだ。真相を知る為には、夕に直接聞く外無い。
しかしこれは夕には聞けない事だ。夕に与えられた情報では無いのだから、絶対に聞ける事では無い。
ならば、答えを知る術は無い。

暫くして武人は今見た事に関する思考を放棄する事を決めた。
どうせ答えの出ない事を考えるのは不毛でしかない。
だから、忘れるのが一番簡単だと思った。
いや、本音をいうならば、夕の抱える正体不明の闇が大きすぎて、自分では持て余してしまうのではないかと、そう思ったのだ。

数分後、ジャージ姿の夕が戻って来た。
「どうした?なんかぼ〜っとしてんぞ。」
武人は気を取り直して笑顔を作った。暗いのは、自分の性には合わない。
「なんでも無いっす!それより先輩、今日こそギター弾いてくださいよ!」
「あ!?嫌だよ!」
夕は露骨に嫌そうに言った。
「良いじゃないっすかー。減るもんじゃなし。俺、先輩の歌聴きたいっす…。」
武人は精一杯懇願してみた。
すると、夕は困った顔になって、一度舌打ちすると、「仕方ねぇなあ。ちょっとだぞ。」と言ってギターを手にした。

実際、夕の歌はとても上手かった。それは本当に綺麗な声で、恥ずかしいなんて代物ではない。ギターも美しいアルペジオで、武人は本気で聴き入ってしまった。
もちろん、演奏の終わった夕を武人がベタ褒めして、夕がまた真っ赤になってしまった事は、言うまでもない。

その後はまた他愛のない話をしただけで、武人は家に帰った。
ただ、夕に近づく度に離されていく、武人はそんな気持ちを抱いていた。同時に、夕の事ばかり考えるようになった。
武人は、そんな自分が少しおかしいのではないかと、うっすらと思い始めていた。




その日は学校の帰り、久々に香奈と街に出掛けた。朝方香奈からメールが入って、『総体で先輩に贈り物あげたいから選ぶのに付き合って』という事だった。気が付けば、総体まで後一週間を切っていた。
武人の学校では毎年、総体の前日に一、二年から三年の先輩に事実上最後の大会という事で贈り物を渡す。ゼッケンに見立てた白い布に、選手それぞれの番号を書いて寄せ書きをする。それにミサンガや何か気合いの入る物を加えて渡すのがセオリーだった。

「…それでシモンは女の子になっちゃって、でもジョカの事をずっと思い続けるの。あたしそれがすっごい切なくて…。しかも結末がね…。」
大型のショッピングモールの中を歩きながら、香奈は最近嵌まっているという古い少女漫画の話をしていた。この店は土日祝日には人がごった返す程に混むのだが、今日は平日でもう夕飯時という事もあって客はいつもより大分少ない。
香奈いわく、少女漫画は最近の物よりちょっと昔の物の方がいいという。なんでも最近の少女漫画の殆どはただ恋や愛だと叫ぶだけで内容が伴わないんだとか。それに比べて昔の物はとても文学的で、短編でも涙が止まらないものもあるらしい。
どちらにしろ漫画を、しかも少女漫画を読む習慣の無い武人にとってはその話は全く興味の無い話だった。
そんな事より。
武人の思考を支配するのはあのことばかりだった。

武人は、生来隠し事をあまりしない。つまり、嘘を付かない。どんなことも馬鹿正直に露呈し続けて来た。たしかにいつもの如くプラスに働く訳ではなかったが、確実にそれは他人が武人に抱く信望と、武人自身の持つ自信の核となりうる部分だった。
しかし武人は、あの時、咄嗟に夕に『隠し事』をしてしまった。嘘をついてしまった。夕の持つ闇の濃さに、武人自身が怯んでしまったからだ。
不可抗力、と言ってしまえればいかに気楽か知れない。しかし、武人はあの瞬間自分の心の中に居た黒いモノの感触を鮮明に覚えている。秘密を手にした、という優越に似た何者かが、自分の中で暴挙を奮った感覚を、まざまざと覚えていた。
それを思い起こす度、武人は身体の底が震えるのを感じた。自分の中に知らない自分が居るという感覚は、武人に少なからずの恐怖を与えていた。
なんにしろ、今、武人は揺れていた。夕に、自分が秘密を知ってしまったという事を言うべきか。それともこのまま嘘を付き続けるべきか。武人にとってそれはどちらも茨の道だ。
嘘をつくのがこれほどに辛いということを武人は始めて知った。
最近はずっとその事について考えていた。それこそ寝ても覚めても、走っていても、ペンを握っていても。
それに加えて、夕に対する興味も絶えない。彼のあの異常性の原因は一体何なのか。そんな答えの出ない疑問をずっと唱え続けている。

「…ねぇ、ちゃんと聞いてる?」
気が付くと香奈の顔が目の前にあった。武人は思わずたじろいだ。
「…え?聞いてる聞いてる!あれだろ?シモンがオカマになったって話だろ?怖いな〜。」
「違う!!全然聞いてないじゃん!シモンの話もう終わったから!しかもオカマじゃないし…はぁ〜…もう、最低。」
「…だってその話興味無いしな〜。」
「え〜、そういうこと言う?普通…。ホントにデリカシー無い…。」
言って香奈は首を振る。
武人は「へへっ」と無意味に笑った。
そこで少し二人の間に沈黙が起こった。武人はそれに違和感を覚えた。いつもなら香奈の激昂に触れるはずだ。それなのに今日は何か考え事でもするように押し黙っている。

「…まぁいいんだけど。」
しばらくして香奈は声のトーンを落として立ち止まった。武人もそれを見て数歩遅れて止まる。その風体に往来の人達もちらちらとこちらを見ていた。武人は香奈の顔を怪訝に覗く。
「どうした?」
香奈は澄ました目でじっと武人を見つめていた。
「あたしの話がどうとかって言うより、最近、武人、いつも上の空だよね。」
武人はそれを聞いてドキッとした。
「そ、そうかぁ?」
「うん。あたしも思うし、部のみんなも言ってる。何か悩んでる事でもあるんじゃないの?」
香奈の率直な言葉に、武人は戸惑った。確かに悩んでいる事は悩んでいるが、その内容をそんなにぺらぺら話して良いものとは思えなかった。う〜ん…と唸りながら武人は目を泳がせていた。
しばらくそうしていたら、香奈は一つため息をついた。そして唐突に「ここだよ。」と言った。武人は始め、なんの事か解らなかった。
「この店、来たかったの。前来たらさ、ちっちゃい陸上選手の形した人形が売っててさ。…ほら、ちょっと来てよ!」
そういって香奈は未だに状況を把握しきれていない武人の手を引いて、目の前にあった洒落た雑貨屋に入った。武人は引っ張られるまま、クエスチョンマークを散らすしかなかった。
いろいろな、一体何に使うのか知れない小物が陳列された棚をひとしきりすれ違って行くと、そこには確かに小さな人形がたくさん飾られた棚があった。いろんなスポーツ選手の形を模した人形で、種類はとても豊富だ。
「先輩一人一人の種目に合わせて買おうかと思って。どう?」
香奈は適当にその人形達を選りすぐりながらこちらを振り返って聞いた。
武人は何がなんだか分からないまま「お、おう。…良いと思うけど…」と答えていた。

一つ398円のその人形を、三年の先輩の人数分、大体十個弱程を持って香奈はレジに向かった。
武人はその後ろ姿を見送りながら、香奈が少し速足になっているのを見逃さなかった。怒ると少し速足になるのは香奈の癖で、武人は幼少の頃からそれを知っていた。
うわぁ〜香奈怒ってるなぁ…。そんなにシモンのことオカマって言ったの嫌だったかな…。
心の中で武人はそう呟いた。


帰り道、二人は街の中に不自然に作られた大きな公園の前の道を、駅に向かって歩いていた。右手には中くらいの大きさの木が、人口的に等間隔に植えられた垣根 が数百メートルと続いていて、左手には大きな車道が通っているが、車は少ない。歩道に沿って付けられた街灯が二人を照らす。
さっき買った人形の袋を下げて、武人は香奈より数歩遅れて歩いていた。さっきから幾分時間は経ったもののやっぱり香奈の歩くスピードは速い。武人のほうが20p以上背が高いのにも関わらず、香奈に合わせて忙しく足を動かさなければならない程だ。
そんな行動とは裏腹、香奈はいつにもなく饒舌だ。いつもは武人の方が圧倒的に口数が多いのに、この時は逆に香奈が喋りっぱなしで武人は香奈の怒りに対する謝罪も出来ないでいた。
始めの内は香奈の話に適当に相槌を打っていたが、そうしていてもどんどんいたたまれない気持ちになって行くだけだった。
「なぁ。」
武人は始め少し弱い調子でそう声をかけた。しかし香奈は聞こえなかったのか、はたまた聞こえたが聞こえなかった振りをしているのか、それは知れないが自分の話を止めようとしない。
武人がもう一度、今度は強めに「なぁ!」と言ったら、香奈はやっと話を止めて武人の方を振り返った。
「何?」
少し目つきが冷たい。武人は少し怯んだ。
「…あの、さぁ…。なんか、俺嫌な事言ったみたいで。…その、悪かったよ!だから機嫌直してくれ!この通り!」
武人は頭を下げて謝った。それは本当の所、出来るだけ香奈の顔を見ないようするためだった。今の香奈と目を合わせて話をするのは少し怖かった。
しばらく沈黙があって、香奈は静かな調子で言った。
「…あんたはさ、そうやって自分がどうして相手を傷付けたかも分からないまま謝っちゃうんだよね。でも、それって、ちょっとズルイよ。言われた方は、ただ許すしかなくて何も言えなくなっちゃう。…うん、まぁ…ただ、今回はあんたは謝る事何にも無いんだよ。」
武人は香奈の言っている事がよくわからなくて顔を上げた。
「俺悪くねーの??」
香奈はふっと小さく笑う。
「あたしが、ちょっと機嫌悪いのは、あんたが悪いんじゃないよ。…あたしが我が儘なだけ。」
香奈の顔を街灯が照らす。
武人はもっと意味が分からないというように香奈を見た。
「あたしもあんたももう大人だから、昔みたいにはいかないんだなって。そう思ったら…ね。」
光に照らされた香奈の顔が、一瞬、とても淋しげに映った。しかしそれはすぐに笑顔に変わった。
「『あんたの悩みはあたしの悩み、あたしの悩みはあんたの悩み。』…今までそうやって来たけど、もうそんな事言ってられないみたい!あたしも、あんたも、少しずつ秘密はできるし、知らない所もどんどんできてくる。」
「香奈…。」
「しょうがないんだよね。割り切らなきゃ。もう子供じゃないんだから、大人にならなきゃ。」
そう言って香奈は踵を返した。
「そんだけ。帰ろう。」
武人は、前を速足で歩く香奈の小さな背中が、小さく震えている気がした。

香奈はそれからはいつもの通りのテンションになった。
電車の中で、武人は少し考えて、香奈にこんな質問をした。
「あのさぁ、例えば…例えばなんだけど、自分の知らない内に誰かに自分の秘密を知られたら、どう思う?」
香奈はそれを聞いて目を丸くした。
「変な質問。『自分の知らない内』なんだからどう思うも何もないじゃない。どうも思えないでしょ。」
「じゃあ、それを本人から打ち明けられたら?」
香奈は少し押し黙って、言った。
「凄く嫌。だってそれはいつか勝手にプライバシーに侵入されてたって事でしょ。そんなの、泥棒と同じじゃない。」
「そっかぁ…。そうだよな…。」
武人はその言葉にショックを受けたが、同時に、一つの決断が出来た。
『先輩には黙っておこう。俺が知らない振りをしていれば何も起こらない…。』

別れ際になって、香奈は言った。
「今日はごめんね!付き合わせちゃって。…それから、ありがとね。」
その時見送った小さな背中は、武人の気のせいかもしれないが、何だか嬉しそうに弾んで見えた。


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作者  one  さんのコメント
お久しぶりです。

一部記事が消えているということなので再投稿です。
内容は全く同じですが。苦笑

一応読みやすいように四五六もまとまったやつを随時アップしようと思います。
なんか今はエラーが出て投稿出来ないのでまた今度。。

しかし続編…実はまだ執筆していません。
一年以上放置していましたが、生活が変わって忙しく中々小説を書いている暇がありません。
しかし続きは必ず書くつもりですので、何がきっかけになるかは分かりませんがその日まで末長くお待ちください。