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水色の太陽 第四章 A
記事No.160 - 投稿者 : one - 2011/04/26(火)10:45 - [編集]
教室への道中、武人は辰巳に聞いた。
「なんか、知ってんだろ?」 辰巳は何も言わない。 「俺にも言えない事なのかよ。」 それでも黙っている。辰巳のそんな様子にあまり怒るようなことの無い武人も、少しいらついてきて、「もういいよ。」とだけ言って歩く速さを増した。香奈の癖が移ったかな、なんて思いながら頭を掻いた。 その時、辰巳がいきなり立ち止まった。そして漸く口を開いた。 「なぁ武人、次の授業、ちょいバックレねぇ?」 何かを決心したかのような辰巳の顔を見て、普段は絶対に授業をサボらないはずの武人なのに、その時は考える間もなく頷いてしまっていた。 二人は屋上に続く階段を登った。最上部の鉄扉を開くと薄暗かったその空間に眩しい陽光が射してきて、前を歩く辰巳に追従していた武人は少し顔をしかめた。 屋上に来るのは久しぶりだ。一度一年の時に来た事があったが、二年や三年ばっかりでなんとも居心地が悪かったのを覚えている。ドラマや漫画の中ではなぜかいつも主人公達だけの秘密の場所的空間で、自分達にとってもそうなのだろうと武人達は息を巻いていたのだ。しかし実際はそうではなくて、なんだかひどく裏切られたような気になってそれ以来訪れていなかった。 その時は授業中ということもあってそこには誰もいなかった。 武人と辰巳は無言で歩いていって、校庭とは反対側に面するフェンスまで行くと無意味に手をかけた。風がびゅーびゅーと吹き抜ける。 しばらくぼーっと街を見ていたら、いきなり辰巳が大声を出し始めた。ただ「あ〜!!」と。 武人は最初びっくりしたが、変に納得もした。やはり何か溜め込んでいるものがあったのだと思った。 その儀式は数分間続いて、ようやく静かになったと思った時に辰巳はボソッと「…ちょっと気ぃすんだ…。」とだけ言った。 それからはまたしばらく街を眺めていた。辰巳の方を見ると、陽光に左耳のピアスがキラキラと光って見える。かなり明るくブリーチされた髪は無造作に風に揺れていた。辰巳もこっちをちらっと見て、そしてやっと語り出した。 「隠してたとか、そんなんじゃねぇんだ。ただ、誰かに言えることなんかどうか判んなくてよ。…俺、バカだし。」 「やっぱ昨日なんかあった?」 「うん…。」 「何が…あったんだよ?」 「…お前にしか言わねぇからな。絶対誰にも言うなよ!」 「当たり前じゃん。」 「…告られた。」 辰巳は少し恥ずかしそうに小さな声でそう言った。武人は最初辰巳が何を言っているのか解らなかった。 『コクラレタ』?コクラレタって『告られた』以外に字あったっけ?辰巳はバカだから使い方間違ってるとか…。 「何て??」 「だから、昨日、アキラに…告られたんだよ。何回も言わせんなよ!」 「告られたってどういう意味だよ?」 「そのまんまの意味だよ!『好きだ』って…。」 「だって!アキラは男だろ!」 「知らねぇよ!俺だって分かんねぇんだ…!」 「でも、男が男となんて…。」 その時、武人は今朝の事を思い出した。自分も、あんな夢を見たじゃないか。 「…詳しく教えてよ。」 武人はそう言うしか無かった。辰巳は淡々と話し出した。 * 昨日。辰巳と彰は武人が香奈とデートに行くと言うので部活後二人だけで遊んだ。 部活の終了時間がうまく重なって、帰りが同じになったのだ。 家に帰るのも野暮なので二人で近くのファーストフード店に入って食事をした。 「今頃武人の野郎は香奈ちゃんとエッチでもしてるんかね〜。」 そう言った辰巳を彰は冷たい目で見る。すっと通った綺麗な目で、黒髪のショートカット。落ち着いた印象が女子陣に人気なのを辰巳達は知っている。しかし彰はどういうわけか度重なる告白を全て蹴っていて、ほとんど女子と話をすることも無い。辰巳はいつもそれが気になっていた。 「んなわけねぇだろ。まだ買い物してる時間だよ、馬鹿。部活終わったの俺達と大差無いだろ。」 「あ、そっか。さすがアキラ!」 辰巳はハンバーガーを頬張りながら話した。 「きたねぇよ。食うか喋るかどっちかにしろよ。」 「へへ、わりぃわりぃ。」 彰の毒舌にももう慣れた。昔はよくこれが原因で喧嘩したものだ。 食事が終わると二人で近くの公園に行った。辰巳が「ぶらんこで大ジャンプするのが得意」とか言って彰を引っ張って行ったらしい。 別に見たがってもいない彰をベンチに座らせてぶらんこジャンプを披露すると、めんどくさそうに拍手をしながら「あぁ、すごいすごい。」とだけ言った。 そんな適当な台詞に辰巳はなぜかやる気になって「よっしゃ!じゃあもっと跳ぶからな!」と延々繰り返していた。彰は度々「そのまま死ね。つか俺帰って良い?」とか言っていたが、結局帰らずに最後まで見ていた。その後は二人でベンチに座って話をしていた。 「このズボンがもっと軽い奴ならもっと跳べるんだけどな〜。」 「そんなハカマみたいなズボン穿いてっからだ。」 「えっ?これそんなに変か?かっけくね?」 「俺には理解出来ねー。歩きにくいし重いだけだろ。俺は今の俺のスケーターが一番調度良いと思う。」 「そんなんスケーターの内に入らねぇって。」 なんてやり取りをしていた。それまでは彰は至って普通だった。 「武人と香奈ちゃんって何処までいったんかな〜。」 辰巳はふいにそんな話を振った。彰はしばらく考えて、「なんもやってねぇんじゃね。」と言った。辰巳は彰の意外な意見に驚いた。 「え、そりゃ無いだろ!あいつら結構長いし。」 「なんかそんな感じじゃない気がする。気がする、だけだけど。」 「ふ〜ん。でも彰の勘は当たるしな。そうかもな!」 そう言って辰巳はけたけたと笑った。 「じゃあ俺達みんな童貞だな!」 辰巳は何の気無しにそう言った。しかし、彰はその言葉を聞いて様子がおかしくなったのだ。 「…童貞…。…そうだよ。俺も、俺もあいつがいなけりゃ…、みんなと一緒だ…。そう、一緒なんだ…。」 いきなり譫言のように何か言い出した。身体もガタガタと震えている。辰巳は今までに彰のこんな様子を見た事は無かった。それは明らかに異常だった。 「アキラ…?どうした?」 辰巳はそう言って手を伸ばした。その時だった。 彰は伸びて来た辰巳の手を掴むと、ぐいと自分の方に引き寄せた。そして一瞬の内に、辰巳は彰に唇を奪われたのだ。 「…っ!?」 辰巳はすぐに彰を突き飛ばした。というか自分が飛びのいた。唇を腕で拭って彰を見た。からかっているのではない。すぐにわかった。彰の目は真剣だ。 「何すんだよ…!」 「何って、キスだよ。…好きなんだ。お前の事が。」 彰はベンチに座ったまま視線を逸らすことなく、きっぱりとそう言い放った。辰巳はじりと後ずさった。 「スキって、なんだよ!」 「キスするってことだよ。分かるだろ。」 「わかんねぇよ…。だって、俺は男だろ!?」 「男が男を好きになったらダメなのか?」 辰巳は何も言えなかった。 「なぁ、童貞嫌なんだろ?俺の身体使えよ。そんで、俺の事綺麗にしてくれ。汚い俺の事…。だめか?」 辰巳は目の前にいる『彰』が一体誰なのか判らなかった。彰なようで彰では決してありえない。辰巳は恐ろしくなった。 「お前…、誰だよ…?」 辰巳がそう言うと、彰ははっとしたような顔をした。 「俺、何言ってんだ…。ハハハ、冗談だよ。忘れてくれ…。」 そう言って鞄を担ぐと、「俺、先帰るわ…。」と言って辰巳を一人残して急ぎ足で帰って行った。 辰巳は街灯に照らされた彰の淋しげな背中を見送りながら、そこに立ち尽くすだけだった。 * 「それ本当なのか…?」 武人はその話を俄かに信じられなかった。話に出て来た彰は普段の彰からは想像も出来ないような人物だ。 「本当だよ。俺、お前らに嘘なんかついた事ねぇだろ?」 「うん…。」 思った以上にディープな話で、正直武人は面食らった気分だった。話を聞けば何か手を打てると思っていたが、策など全く思い浮かばない。 彰とは中学からの仲だがやっぱりまだ知らない事の方が多い。自分はなんと無力なんだろうと、武人は絶望する。 「俺、どうしたらいいかわかんねぇよ…。俺、あいつのこと好きだけど、そんなんじゃねぇんだ。今までみたいに俺の馬鹿にツッコミ入れてくれるだけでいいんだ。ずっとダチで居たいんだよ…。」 辰巳は泣いていた。武人は、ただ辰巳の背中を撫でるしか出来なかった。 そんな自分に悔しくて、武人も泣いた。 澄み切った青空に、二人の悲しげな鳴咽が染み渡る。 一方その頃、保健室では彰が目を覚ましていた。 カーテンの奥で彰が動いたのに、三枝はすぐに気付いた。ベッドの近くまで移動して、カーテン越しに声をかける。 「起きた?あなた体育中に倒れたのよ。しっかり寝ないからね。」 「…そう…ですか…。全然覚えてないですけど…。」 彰もカーテン越しに返答する。 「もう大丈夫?あれだったらもう少し寝てなさい。」 「…そうします。」 「そういえばさっき朝日君と辻岡君が来たわよ。顔見て帰って行ったけど。」 「…! …武人と、タツが…?」 「えぇ。辻岡君がいつに無く無口だったけど、二人共心配してたわ。」 「…無口…ですか。…わかりました。それじゃもう少し寝ます。」 そう言って彰はごそごそとベッドに横になった。 「そうしなさい。」 三枝がそう言った時に授業終了のチャイムが鳴った。 彰はじっと天井を見つめていた。 * 屋上にもチャイムの音が聞こえていた。その頃には二人はすっかり泣き止んでいた。 「昼休みになったら…アキラの所、行こう。」 武人は言った。辰巳が赤い目で武人を見る。 「そん時には目覚ましてるかもしれないし。」 「つっても…。俺…。」 「どうしたらいいかとか、俺も何にもわかんないけど、このままでいるよりとりあえず何かしよう。アキラと、話してみようよ。」 武人の真っすぐな瞳に、辰巳はこくりと頷いた。 二人はとりあえず教室に戻った。クラスメイト達は二人が前の授業をサボった理由をなんとなく察しているようで、気を遣ったのかその事に関しては何も聞いて来なかった。説明するのも適当な嘘を付くのも武人は苦手だったので、それはかなり助かった。辰巳もそれは同じだった。 4時間目の数学の授業中、武人はぼ〜っと考え事をしていた。 彰が同性愛者であった事。それは確かに驚きだった。『同性愛』などというものは自分とは全く関係の無い社会問題だとばかり思っていた。それがこんな身近にあったのだ。実際困惑している。 しかし自分の中でとてもすっきり落ち着く物もあった。 自分の中にある進藤夕に対する感情の正体。その全貌が見えた気がする。 どんな問題もそうだが、『答え』を出すためにはそもそも『答え』を知っていなければならない。数学に於いては解答のプロセス。未享受の知識は解答にはなりえない。知識として知らないのだから。 元来ヘテロ・セクシャルの武人にとっては『同性愛』とは未知だった。そういうものがあるのは漠然と知っていても、自分のモノとして昇華するには知らな過ぎる領域。だから武人は気付かなかった。自分のこの思いが既に『尊敬』を逸脱してしまっていた事を。 「…朝日、ページが全然違うんだが?」 ふと我に帰ると目の前に先生が立っていた。数学の大隈。名前の通りデカイ図体をした先生だ。 「目を開けながら寝るとは器用な奴だ。」 大隈はそう言って身を乗り出してくる。タバコとコーヒーの混じったおかしな臭いだ。なんにせよこのむさい顔のアップは少しキツイ。教室では所々笑いが起こっていた。 「いや、ちょっと考え事してまして。アハハ…。」 武人は苦笑いを浮かべた。 「ふん。お前にしては珍しいな。」 大隈はそれだけ言うとまた教卓に戻って数式の解説を始めた。武人はその解説を無意味と分かりながらそこから写し始めた。 後ろを振り返ると、辰巳はまたあの体勢で前の席をじっと見ていた。 授業が終了すると武人は辰巳に目配せして保健室に向かった。なんだか緊張する。 一番近い階段で一階まで降りて、水道の取り付けられた廊下を突っ切るとあの廊下がある。そこを左に曲がるとすぐに保健室だ。 二人が保健室前の廊下まで来た時だった。 「うわーーー!!!ヤメロォ!!」 彰の声だった。二人は顔を見合わせてすぐに走りだした。 「アキラ!?」 保健室の戸を開けるとまず目に入ったのは腰を抜かしたような体勢で床にへたり込んでいる三枝だった。手には体温計を持っている。 そしてその目の前、三つあるベッドの真ん中のベッドの上で、彰は膝を抱えてガタガタ震えていた。そして、何かぶつぶつ言っている。 「…て…、…めて…。…あさんおねがい…。やめ…。…なさい。ごめんなさい…。」 それは明らかに異常。武人は彰のその状態に恐怖すら覚えた。 『こいつは…誰だ…?』 そこにうずくまる者は武人の知る何者でもない。よもや彰で有り得るとは到底思えなかった。 「先生何があったんだよ!?」 辰巳が叫んだ。 「わ、分からないわ。…私はただ体温を測ろうと思って…。」 三枝も何が起こったのか分かっていないようだった。 「体温!?そんな事でなんで…こんな…。」 三枝は立ち上がって、彰に向かって行った。 「霜野君…?大丈夫よ…。ほら…。ただの体温計よ…?ね?」 すると彰はまた叫んだ。 「うわーー!!! ヤメテ!!来ないで!…もう、やめて下さい!おねがいします…。痛い…痛いの…嫌だ…!…あさん、もう止めて…。止めてよ…。痛いよ…。」 彰は大粒の涙を流している。三枝はその惨事に立ち尽くすだけだった。 彰の大声に野次馬も集まり出した。保健室の入口に生徒や先生が集まっている。 辰巳はそれを見ると腹だたしそうに舌打ちをして「見せもんじゃねーんだよ!!!」と一喝すると足早に入口まで行くと思い切り戸を閉めた。あまり勢いが強かったので戸に嵌まったガラスに何本もひびが入った。その剣幕に誰も騒がなくなった。 辰巳がベッドの側に戻って来た時には、彰は武人に抱き抱えられた状態だった。 「アキラ、怖くないよ…。怖くない。俺達ここにいるから…。」 武人はそう言って彰の頭を撫でた。彰は依然震えている。 「かあさん…。ごめんなさい…。ごめんなさい…。」 「俺達がついてる…。心配すんな…。」 「ごめん…なさい…。」 「大丈夫…。大丈夫…。」 「…。」 彰はいつの間にか眠っていた。 武人はそっと彰を横にすると、布団をかけた。 「本当に体温を測ろうとしただけなのよ。」 三枝は白衣をはたくとそう言った。恐らく三枝の言う事に嘘は無い。武人も辰巳もそんなことは重々理解していた。 そんなことより彰のあの様子は一体なんだったのか。中学から彰のあんな状態など一度も見たことが無かった。二人はさらに意気消沈した。 「まるで何かに怯える子供みたいだった。さっき、『かあさん』って…。」 武人がそう言った時だった。 「アキラ!」 作業服を来た男性が勢いよく入って来た。あんまり勢いが強かったのでひびの入ったガラスは全部割れてしまった。…が、本人は見向きもしなかった。 武人と辰巳は二人揃って「あ、おじさん。」と言った。 「そうか…。武人君が彰を…。良かった…。」 男性は彰の父親の勝(まさる)だった。当然武人と辰巳は既に面識がある。仕事先に学校から彰の様子がおかしいという連絡が入り、飛んできたらしい。 保健室のソファーに座って事の一部始終を説明したら、勝はそう言った。 「つうことはやっぱりおじさんなんか知ってるんすか!?」 辰巳は身を乗り出した。 「落ち着いてくれ。私もこの発作の事は君達にも話すべきだと彰に言っていたんだ。しかしどうも本人が嫌がってな…。」 「どうしてっすか!」 武人も声を荒げる。 「気持ち悪がられて、仲間外れにされるのが怖い、と言っていた。」 「俺達が彰を仲間外れになんかするはず無いのに…。」 「私もそう言った。しかし彰は『言わないに超したことは無い』と言って聞かなかったんだ。」 「どうして俺達を信じてくれなかったんだよ!!」 辰巳は悔しそうに壁を殴った。傍らで聞いていた三枝が「やめなさい!怪我するわ。」と言って宥めた。 「君達の無念も分かる。しかし彰も苦しかったんだ。」 「どういう事っすか?」 武人は聞いた。 「あいつは、心から信じたものに裏切られる痛みを知っているから…。」 悲しげな声だった。まるで、自分もそれを経験したと言っているような、そんな悲痛の声だ。 「話してくれますよね?」 「もう知ってしまった君達に隠す事は出来ない。彰も諦めるだろう。」 そう言うと勝は立ち上がり、彰の側に行くとその頭をそっと撫でた。 「彰は、小学校高学年まで実の母親に…虐待を受けていた。…それは性的なものにまで及ぶ。愚かにも、私はそれに気付かなかった…。」 勝の言葉に一同は驚愕した。 勝は語り出した。 彰の母親、恵(めぐみ)は美しく聡明な女性だった。勝は彼女と大恋愛の末、第一子である彰を儲けた。 勝は工場で働いていたので、帰りは遅く、家の事は全て恵がやっていた。帰りが遅いとは言っても、土日はしっかり休みだし、お金の不自由もなかった。二人で相談して家を建て、彰が小学校に上がるまでは幸福そのものの家庭だった。彰はお母さんっ子で、いつも恵に付いて歩いていたという。 しかしその頃から、彰はよく怪我をするようになった。勝が家に帰ると、毎晩のように恵は「アキラちゃん、また転んだんですって…。」と言った。 三年になる頃にはいよいよ酷くなって、休みの日に話しても口数は少なく、暗い。怪我の事を聞いても「転んだ。」としか言わない。それでも生傷はどんどん増えた。勝はまずは学校を疑った。 担任の先生に恵と一緒に直訴しに行った。しかし担任には『教室ではいじめらしきものは一切確認出来ない。』ときっぱり言われた。勝は納得が行かなかった。 それからの一年はずっと学校と戦っていた。しかし一向に彰の怪我の原因は見定まらない。恵はよく彰を抱いて泣いていた。 しかし、それはただ勝が、恵の中に潜む魔性に気付いていないだけだった。 彰が五年生にもなると、恵に異常が現れ始めた。 まだ若かった勝と恵は、その時でも頻繁に身体を重ねていたが、どういう訳か突然性行為に応じなくなった。 インターネットのショッピングカートの中に、勝の身に覚えの全く無い怪しげな道具が入っていたり、お金を普段より多く要求するようになった。 家の中ではそんな怪しげな道具や宝石のような自分の意に反する物は何一つ見つけられなかったので、勝は自分の思い過ごしだと思っていた。 しかし無情にも、その日はやってきた。 平日のある日、勝は仕事が早く終わったので、恵に内緒で夕方頃に帰宅した。柄にも無くケーキなんかを買って、二人を驚かそうと思ったのだ。二人の喜ぶ顔が目に浮かぶ。勝の心は踊っていた。 しかし家の玄関の鍵を開けて、中に入った時に最初に耳に入ったのは、彰の悲鳴ともつかないうめき声だった。勝は手に持っていたケーキの箱を落とした。 勝は『アキラ!』と叫びたい衝動を抑えて、物音が立たないようにその声の元を辿った。 そこには驚くべきことに、勝の知らない内に作られた地下室があったのだ。…恐らく家を建てた当初、既に恵が手配していたのだろう。 勝は最愛の息子の呻きが木霊するその暗い階段を忍び足で降りて行った。 『嘘であってくれ…。』 そう願わずにはいられなかった。 そして、階下で繰り広げられるその光景に、勝は絶望した。 そこには、全裸の実の息子の手足を縛り、目隠しをし、猿轡をはめ、そのまだ小さな尻に可哀相な程大きなバイブを突き刺し、そしてその上に跨がり腰を振る恵の姿があった。 彰の身体には蝋燭による火傷跡や、鞭による傷痕が新しいものから古いものまで無数にあった。母親の動きに合わせてうめき声を上げている。 よく見ると暗いその地下室の壁には、何に使うのか分からないような恐ろしい道具が店のように並んでいる。 戦慄だった。勝はまさに今眼前で行われている事を理解出来なかった。いや、理解したくなかった。夢だと思いたかった。今まで我が子を蝕んで来た忌むべき者が、最愛の人だったなんて。 しかし、信じる以外に無かった。 「アキラ!!!」 勝は彰の上にいる魔女を背後から突き飛ばし、最愛の息子を解放した。涙でびしょ濡れの目隠しと、猿轡を外すと、彰は「ごめんなさい…。ごめんなさい…。」と延々謝り続けていた。 勝は変わり果てた我が子を力いっぱい抱きしめると、「ごめんな…、ごめんな…。気付くの、こんなに遅れて…、本当にごめんな…。」と言って涙を流した。 恵は何も言わず、床にへたりながら、ただそんな二人の様子を眺めていた。その頬を、一筋の水滴が流れ落ちて行った。 その後、恵は自ら警察に出頭し、忌まわしい家も引き払い、今は二人で小さなアパートに暮らしていた。 恵は自主する前に、勝に自分の事を話していた。 恵は天性のサディストで、しかも小児嗜好者だった。勝と結婚する以前から、自分の子供を拷問する事を夢見ていて、その為に勝と結婚し、彰を育てて来たのだと告白したのだった。 「そんな体験のせいで、彰は極度の女性恐怖症なんだ。普段なら理性である程度の発作は抑えられるが、今日のように弱った時に、あなたみたいに恵と背丈の似た女性が近づいてきたら、発作を起こしてもなんらおかしくない。彰は発作を起こすと当時に退行し、まるで今恵に乱暴されているような錯覚に陥る。」 武人達は彰の壮絶な生い立ちに涙を隠せなかった。辰巳はもはや号泣だ。兄弟の多い幸せな家庭に育った辰巳にとって、彰の身の上は刻過ぎたのだろう。 「発作が起こった時いつもはこの安定剤で落ち着けるんだが、武人君が治めてくれたんだったな。本当にありがとう…。私はもうあの子にこれ以上苦しんで欲しくはない。」 勝はズボンのポケットの中で拳を握りながらそう言った。 「恵が居なくなってからも、決して楽ではなかった。彰はまるで人形のように生気が無く、女性を見る度発作を起こしていた。」 昼休みはとっくに過ぎ、5時間目の授業も半刻が過ぎていたが、一同は時間も忘れて話を聞いていた。 「精神科に通いつめ、中学に上がるまでにはなんとか発作はある程度抑えられた。それでもずっと彰はふさぎ込んでいて、私が何をしても心を閉じたままだった。私は彰の為に何も出来なかったんだ。」 辛かった…。そう言って勝は頭を掻いた。 「だが、そんな時、彰に友達が出来た。…君達だ。武人君にタツ君。彰はみるみる明るくなっていった。家では君達の話ばかりさ。」 武人は、中学一年のとき意気投合した辰巳と一緒に、まだ学校に慣れていない風だった彰を仲間に引き込もうと努力したのを思い出した。 確かに今でこそ毒舌批評家で通っているが、当時はほんとに無口だった。 「君達には本当に感謝している。だから、これからもどうか彰の事をお願いしたい。あいつには、君達しかいないんだ。」 武人と辰巳は、勝の言葉に力強く頷いた。 「じゃあ私は仕事に戻るよ。」 勝はそう言ってそそくさと帰って行った。 「あなたたちも授業はどうするの?」 三枝がそう聞いて来たが、二人は彰のベッドサイドに椅子を持って行ってそこに座ると、「ここに居ます。」と言った。 三枝はそれを聞くと小さくため息をついた。 「今日だけよ。」 彰の寝顔は、未だ曇ったままだ。 * 武人はいつの間にか眠っていたらしい。肩を叩かれる感触に目が覚めた。窓から射す光は、赤みを帯びている。前を見ると、彰がいた。目の下の隈はすっかり消えていた。 「アキラ…。おはよう。」 武人はそう言って微笑んで見せた。 「こっちのセリフだよ。ばーか。」 彰はそう言って、武人の正面に視線を移した。そこには、俯せで寝息をたてる辰巳が居た。 彰はまだ恐れている。武人は直感で分かった。 「タツ〜。アキラ起きたぞ。」 武人はそう声をかけた。彰はびっくりしたような顔で武人を見る。武人はニカッと笑って見せた。 「んあ〜。おはよう…。」 彰は緊張した面持ちだったが、そう言って顔を上げた辰巳の顔を見ていきなり吹き出した。辰巳の顔は俯せで寝ていた為に目が腫れてとんでもなく不細工になっていた。 「っえ!?何??俺の顔なんか付いてる??」 彰が笑う理由がわからず、辰巳はうろたえる。 「アハハハ!元から酷い顔がさらにヒデーことになってんよ!」 彰は心の底から笑っていた。武人もそれを見て笑った。 三人はみんな無断で部活を休んで、昨日の公園に来た。最初辰巳は例のぶらんこジャンプをやっていて、武人も一緒にやっていた。彰はそれを見て野次を飛ばす。 ひとしきり遊ぶと、三人はベンチに腰掛けた。しばらくみんな無言で沈む夕日を眺めていたが、徐々に暗くなっていく風景の中、最初に口を開いたのは彰だった。 「安定剤が、置いてあった。父さん、来たんだろ?」 少し、声が震えている。辰巳と武人は「ああ。」と答えた。 「俺の話、聞いたんだよな…。」 二人はまた「ああ。」と答えた。 「…引いただろ?気持ちわりい…よな。俺、小5で童貞卒業してんだぜ。」 二人は小さくなって行く太陽をじっと見ていた。彰の声は、震えている。それと一緒に身体も小刻みに揺れている。 「…俺、昨日、タツにあんな事言っちまったし、…もう終わり…だよな。ホントに今まで…。」 彰がそう言おうとした時、辰巳がいきなり立ち上がった。ベンチの正面に設置されたランプまでずかずかと歩いて行くと、「あ〜あ!」と叫んだ。 「タツ…?」 彰は不安げにそう言った。 「…俺さぁ、考えたんだよ。馬鹿なりに。 ぶっちゃけ、俺お前の話聞いた時にワンワン泣いたよ。泣けて泣けて仕方なかった! だって俺なんて、お袋は殺しても死なないような奴で、親父は喧嘩しても未だに勝てないし、ガキみたいな弟二匹ととまだ赤ん坊の妹が居て、金持ちでもなんでもないけどめちゃめちゃ幸せな生活送って来たんだ。 違い過ぎだろ!理不尽過ぎんだろ!可哀相過ぎんだよ!! …だけど、それでも、俺ぁお前に同情なんかしねぇ。」 彰はじっと聞いていた。暗くてよく見えないが武人には泣いているように見えた。 「なんつってもこの世界一イケメンで幸せ王子の俺様が、お前に幸せ分けてた筈だからだ!」 そう言って辰巳はずんずんと歩いて来ると、彰の目の前に立って大声を出した。 「アキラ!お前、今は幸せだろ!!」 近くの木に止まっていた鳥達が一斉に飛び立った。その時、辺りは一気に静まり返った。 「お前の過去がどんなに悲惨だったか知らねぇ。母ちゃんに裏切られた事がどんなに悲しかったか知らねぇ。 でもそれはあくまで過去の話だ!終わった事だ! 今は違うだろ!?今のお前は、俺達と一緒で幸せな筈なんだ! お前の過去がなんであろうと、俺達の知ってるアキラはアキラで、そこに変わりは無ぇよ!! 絶対に俺達はお前を裏切ったりしねぇ!!」 彰は鳴咽を漏らしながら泣いていた。 「…いいのかよ…。っく…ホントに…。うぅ…。」 「当たり前だろ。お前は、俺達と一緒に居たくないのか…?」 彰はぶんぶんと首を振った。 「嫌だ!お前らと一緒に居たい!!ずっと、笑っていたいんだ!」 それを聞いて辰巳はニカッと笑う。 「…俺も一緒だ。武人も、な。」 そう言って辰巳は武人を見た。武人は満足気に笑って、「当然!」と言った。 帰り道、辰巳は暗がりの中言った。 「なぁアキラ、昨日の事だけどな、…答えはノーだ。」 彰は残念そうに辰巳を見た。 「俺はお前の事、そんな風には見れないし。」 辰巳の言葉に彰は俯いて、「そっか。」と言った。 「何より、恋人‘なんか’になっちまったら、友達でいれないだろーが。」 恋人なんか、武人はその言葉にはっとした。辰巳の中では、友達の方が上なんだな、と思った。彰も、それに気付いたらしい。ふっと笑うと、「あれ?お前あんなの本気にしてたの?馬鹿もここまで行くと冗談も通じないみたいだなぁ。」と悪態をついた。辰巳は「何ー!?」と言って怒りだす。 ああ、やっと戻って来た。俺達の幸せ。たった一日の事だったけど、凄く長く感じた一日だった。武人は顔がにやけるのを抑えられなかった。 そして、この時武人はある決心をしたのだった。 もうすっかり暗くなった空には、綺麗な三日月が浮かんでいた。 COPYRIGHT © 2011-2024 one. 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