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水色の太陽 第五章 A


記事No.162  -  投稿者 : one  -  2011/04/26(火)10:50  -  [編集]
100m走決勝に出られるのは準決勝に残った二十四人の内上位八人。
とはいっても、『上位』と言うには少し語弊がある。実際に決勝に歩を進めるのは、三組ある準決勝各レースの一、二位とタイム上位の二人だ。…つまりこのシステムは、走る組によって勝てる勝てないが左右する。
速い選手が二人以上いる組なら、彼らより格下の選手は決勝に出られる可能性がうんと低くなる。
逆に速い選手がいない組に運良く当たりそのレースで二位内に入れば、例え別レースの八位よりタイムが遅くとも決勝に進出出来る。


午前中に発表された準決勝の組分けを見て、夕は武人の幸運に嘆息した。
武人の組に速いと言える奴は前山しか居ない。(夕が認識している『速い奴』が前山しかいないという風にも考えられるが。)これならば本当に武人は決勝まで 出て来るかもしれない。いつもは二年で決勝に出るのは一人居るか居ないかだ(去年は夕一人だった)が、今年は二人以上出てきそうな感じだ。

「ホント運の良い奴だな…。」
富田が今年買ったマッサージベッドに俯して、ともよにマッサージを施してもらいながら夕はそうぼやいた。足底筋を揉みほぐしながら、ともよが「え?なんか言った?痛い?」とか言っている。夕は片手を上げてぷらぷらさせながら「何でもねーよー。良い感じ。」と答えた。

「なんか今日も良い調子だね。ほとんど筋肉の張りも無いし。」
ふくらはぎ付近を押し込みながらともよが言う。
それに対して夕は「うん。」とだけ簡素な返事を返した。
確かに、この大会は頗る調子が良い。これならもしかしたら…。
「大会記録狙えるかも。」
「かもな。」
「もしそうなったら凄いね。」
「そうだな。」
「進藤の名前が来年からプログラムに載るんだよ!」
「ああ。」
「…も〜、もうちょっとリアクションしてよ!自分の事でしょ?」
「ああ。」

だって興味が無い。
そんな所に自分の名前が刻まれた所で、一体何になる。確かに、来年や再来年までなら夕の名前を見て慶ぶ後輩は居るだろうが、それだけだ。夕自信も、その名前が載ったプログラムを見れば、一抹の誇りを感じるだろうが、それもそれだけだ。
また何年かしてその記録が塗り変えられれば、何の陰影も残さずにその名前は消えてしまう。
そんな不確かなものは、もっと不確かな『自分』という存在を確立する為には何の役にも立たない。
くだらない。
夕は思う。



ともよのマッサージが終わると、すぐに夕はアップをした。
前山と一緒に適当に身体をほぐし、終わったら100mのコール場所に向かう。
コール場所はメインスタンドの下に併設されている室内走路だ。100mのスタート地点にダイレクトに出られる場所で、軽いアップならそこでも出来る。
そこは、間もなく始まる女子の100m準決勝に向けた緊張感で空気が張り詰めていて、少し息苦しい様相だった。

夕と前山は競技場の裏側から走路に入った。女子の最終コールが行われているのを尻目に、そこから少し離れた壁際に荷物を置いて腰掛ける。そしてさっとランニングシューズを脱ぐと、おもむろにスパイクの準備を始めた。
「先輩、新しいスパイクどうですか?」
夕がシューズ袋からスパイクを取り出した矢先、前山がそう尋ねて来た。当たり障りの無い質問。こいつらしい。
「結構いいぞ。デザインも良いしな。」
「いくらでしたっけ?」
「三万。」
「えー、高!!」
「そうだな。」
前山との話は詰まらない。
最近よく感じる。というか、誰と話しても詰まらない。
今まではそんな事思ったことは全然無かったが、なんだか詰まらない。
何故かはよく分からない。
いや、これがもしも『何か』の対比として詰まらなく感じると言うなら、分からなくも無いが。
それだけ、あいつとの話が『楽しい』と、夕は思ってしまっていた。

するといくばくもせず当人が現れた。
好きと言っていた青色のランシャツに黒地のハーフパンツ。よく見る恰好だ。手にはスパイクの袋と何か飲み物の入ったペットボトルを持っている。その軽装はいかにも奴らしい。ひとりでに頬が緩む。
室内走路の入口付近で暫くキョロキョロして、その末に目的物を見つけたのか、小走りで駆けだした。
そして夕の目の前に来てどかっと座ると、いきなり奴は「ワンワン!」と吠えた。武人のその意味不明な行動に、とりあえず夕は「は??」と言って目を丸くするしかなかった。
「あれ?犬はダメっすか?」
武人は何故かびっくりしていて、「じゃあ猫が良いっすか?ニャンニャン!」とか言っている。どうもふざけているらしい。
夕は冷ややかに「お前は何がしたい?」と言ったが、心の底では『ちょっとかわいいかも…』とか思ってしまった。夕はそれを心底不覚に思ったのだった。


「多分俺本当に準決勝通りますよ!てか前山とか抜きますよ!」
武人がそう息を巻く。隣で聞いている前山はただへらへらしていた。
「へ〜、頑張れ頑張れ。」
夕は適当に流す。
「あっ!先輩信じてないでしょ!!」
「うん。」
「あー、ひどいっ。」
武人のリアクションはいつも大袈裟だ。
「まぁまぐれで行けるかもな。」
「まぐれじゃないっすよ!俺頑張ってるんです!」
「そっかそっか。」
そう軽く流してはいたが、実は夕も武人のがんばりが目に見えて分かっていた。
昨日の予選もそうだったが、数週間前に一緒に練習した時とは明らかに走りが違った。
走りの形など、一朝一夕で変わる物では無い。夕が前山のフォームを改造するのにも、毎日付きっきりで指導して丸半年ばかりかかったものだ。それを、確かにまだ粗削りではあるが、この短期間で、しかも夕が一度指導しただけでここまで変えてしまうからには、相当の努力が必要だったろう。
そんな事は容易に予想出来た。
そんな問答を繰り返す内に、女子の準決勝が始まった。

そこには武人の彼女の姿もあった。
彼女を見つけて、夕は少し不思議に思ったのだが、武人は試合前の彼女に何の声もかけなかった。ずっと夕の隣に座っていたのだ。
『付き合っている』からには普通何か言葉をかけるものでは無いだろうか。
夕が「おい、あの子。」と言っても、「あぁ、香奈ですか?出てますよ。」と言ってケラケラと笑っているだけだった。
別段変とも言えないが、夕はそれが何となく気にかかった。

香奈は組三位で、コンマ一秒差惜しくも決勝には出られなかった。
武人は、残念そうに帰って来た香奈に労いの言葉をかける際にも、夕のひざ元は離れなかった。香奈も、その武人の「お疲れ!」に対して、軽く含み笑いを返す程度だった。
『変』ではないが、やはり夕は二人のそのコミュニケーションに若干の違和感を覚えたのだった。

「男子100m準決勝の最終コールを始めます!選手の方は集まって下さい!」

係員が向こうで声を上げている。
「あ、先輩行きましょう。」
武人はそう言って立ち上がった。夕と前山もそれに続いた。



「ほら!!先輩!ちゃんと通ったでしょ!見てました!?」
先に走り終えた夕の所に、武人は上機嫌にそう言いに来た。今100mを走り終えたばかりのはずなのに、そのまま走って来たかのような早さで武人はそこにいた。流石に息は絶え絶えと言った感じだ。
「ぁあ?一々お前のレースなんか見るかよ。」
夕はユニフォームを脱ぎながらそんなことを言った。本当はしっかり見ていたのだが。
「え〜〜!?俺二位でしたよ!?…前山には…、まぁ惜しくも敗れましたけど…。」
「そうか。良かったじゃねぇか。」
あれは惜しいとは言わない、と夕は心の中で思ったが、それは言わないでおく。

しばらくすると前山も帰って来た。「お疲れ様でした〜。」と言いながら夕の隣に座り、着ていたシルバーのユニフォームを脱ぐ。
「お前スタートちょっとミスっただろ。」
夕は前山の顔を見ることなくそう切り出した。
「ぇ、あ、分かりました?」
前山は驚いた様子で夕を見る。
「スタートのタイミングは悪くなかったんですけど、一歩目が思いの外前にでなくて…。」
そう続けるとバツが悪そうに頭を掻いた。
「決勝じゃ気をつけろよ。」
「はい。」

「ってか、先輩やっぱり見てたんじゃないっすか!!」
そこで話に割り込んで来たのは言うまでもなく奴だ。
「お前は別として、かわいい後輩のレースを見ない奴がいるかよ。」
夕はそういうと荷物を肩に架けて立ち上がる。
ちょっとキツイ言い方だったか?と思いふと武人の顔を見ると、曇った表情で夕を見上げていた。何か言いたげだ。
「何だ?」
夕は聞く。すると武人は俯いて、
「…俺も先輩の『後輩』になりたかったです。そしたらもっと、いろいろ、教えて貰えたのに…。」
とそう言った。
それを聞いて夕は、「…そっか。残念だったな。」と言って踵を返した。また、顔が熱くなる。二、三歩歩いて立ち止まって、「俺も、」と言いかけたが、やっぱり恥ずかしくなってやめた。何も言わずに歩きだす。
そのとき、あいつがどんな顔をしているのか、夕には想像出来なかった。



決勝もすぐ終わった。
夕にとっては、たいしたことのない一連のイベント。
ここで夕が優勝することも、大会記録を更新することも、全ては決まり切った事であって、夕はそこにはなんの感慨も抱かない。
それなのに、回りがワイワイ騒ぎ立てて、泣き出す後輩とかマネージャーとかもいるものだから、今まで通りそこで一芝居を打つのは、夕の身体に染み付いてしまった悪い習慣だ。

『ありがとう!俺がここに立っているのは、みんなのおかげです!』

なんて、言いながら自分を嘲笑する。醜い人間になってしまったものだと、夕は自分自身を軽蔑するのだ。


前山は三位。…武人は八位だった。
上の大会に出られるのは六位までだから、『八位』という順位は、あまりうれしいものではない。賞状は貰えても、点数は稼げても、それだけの意味しかないのだ。
走り終えた後、いつもはウザったい位纏わり付いてくるあいつが、何も言わずに自陣に帰って行った。その時の奴の背中は、いつもより小さく見えた。


その日のラストの4×100mリレーも、100mの一位と三位のいるチームにとってそれは当然の結果なのだが、夕達が優勝した。
しかし武人達は七位で、またもや上位大会には出られない結果だった。
その時、武人は四人のメンバーの中で、どの三年よりも悔しがっていたように、夕には思えた。
「お前にはまだ来年があるだろ?」
そう宥める先輩達に、
「違うんです…。俺には今年しか無いんです…。」
と、そう苦悶の言葉を返していた。


その日の成績は、100mだけでなく別のトラック種目やフィールド種目でも上位者が続出し、二日目の時点で三年は全員上位大会出場を決めていた。
思いがけない好成績に選手達は高揚して宿舎に帰った。

その日のミーティングの時、夕は富田に呼び出され、「明日は200mを棄権して、マイル(4×400mリレー)だけ走れ。」と言われた。「100mと 200mと四継とマイルの四種目を抱えていては、次の大会では重荷になる。インターハイに出るなら一つ捨てる方がいい。」という理由だ。それは、夕が 200で優勝せずとも、もはや総合優勝は確信しているという、富田の自信の顕れのようにも思えた。
実際夕の200mは、インターハイを狙える程でもなかったので、夕は二つ返事でそれを了解した。
その穴にあいつが入って来てくれるのを、密に願いながら。

「なんであいつ、あんな悔しがってたんだろ。」

晩飯のから揚げを一つ箸で摘み上げながら、夕は無意識にそうぼやいた。
昨日と同じ小さなレストラン。レストランと言うよりはその良い意味での小汚さは、定食屋といった風貌の店。
周りが騒然とくっちゃべる中、夕のその一言はどうも異を放ったらしく、付近にいた三年陣は一斉に怪訝に夕の顔を覗いた。無意識下での発言であっただけに、夕はその状況に少し戸惑った。
最初に声を発したのは淳だった。
「あいつって?」
その質問に夕はさらに当惑する。他校の人間についてこいつらに話すのは、何かおかしいんじゃないだろうか、そう思った。
「いや、なんでもねぇ。一人言。」
そう言ってハハっと笑う。
「もしかしてあいつ?夕と最近仲良い二年生。リレーの後めちゃくちゃ悔しがってたよな〜。」
そう言ったのは信也だ。
「あ、俺も見た。三年以上に悔しがってたよな。かなり切羽詰まってた感じだったけど、なんかあんのかな。」
理貴も話に便乗する。
勝手に話が展開していくので夕は少し驚いた。自分が思っているほど、他校の選手を話題にあげることはおかしなことではないらしい。
「で、この話で合ってんの?」 夕に話を振るのはいつも淳だ。
夕はばつが悪そうに頭をかくと、「まぁ…。」と言いながら頷いた。


しばらくそれについて話し合っていたが、みんなは『妹が悪の組織に捕まっていてこの大会で良い結果を出さないと解放して貰えない』とか『母親が病気で死にそうだからせめて最後の大会では息子の良い格好を見せてあげたい』とかいうよく分からないお涙頂戴物語を想像して笑っていた。
夕は以前武人の妹に対する愚痴を聞かされたことがあったし、母親については「殺しても死にそうにない」と言っていたのを覚えている。だからそういう話ではないという事はなんとなく分かっていた。
ふと信也がこんな事を言った。
「この大会で最後なのって三年が多いだろ〜?やっぱ三年関係なんじゃない?」
特徴的な緩やかな話し方。未だに意味不明な物語を想像して笑っていた淳と理貴も真面目な顔になった。

「なるほど。」
そう言って手を叩いたのは理貴だった。
「なんか分かったの?」
淳が目を輝かせながら聞く。もはやこの話題を心の底から楽しんでいる。
理貴は、いやらしい微笑を浮かべながら自信ありげに言った。

「女だ。」

その場が一瞬凍り付く。
「は?」
「どういう意味?」
淳と信也は呆れたように理貴を見る。夕はただ黙っていた。

「だから、実はあいつは他校の三年の事が好きなんだよ。で、しかもその三年は結構強い選手で、既に次の大会の切符を手にしてる。だから自分もこの大会で6位入賞しとかないと次の大会に出れないからもうその三年とは会えないだろ?それで焦ってるんだ。まだもう少し時間が欲しいから。」
「なんで他校?」
と淳。
「だって自分の学校の先輩だったら例えこの大会で終わっても学校でいくらでも会えるじゃん。」
「「なるほど〜。」」
淳と信也は同時に感嘆した。
「これで決まりだ!」
理貴は嬉しそうにガッツポーズをした。
夕以外の三人は「やっぱり竹内さんだろ。」とか「いや島田さん。」とか「清水さん。」とか三年でかわいいと言われている有名選手を挙げだして、まさに解決ムード一色だったが、そのムードは夕の「ま、あいつ彼女いるけどな。」という冷徹な一言によって粉々に粉砕されてしまった。

「「「っっえ〜〜〜〜!!」」」
「ほら、同じ学校の短距離やってる背の低い子。あの子と付き合ってる。」
言いながら、夕はなんとなく胸が痛いような気がした。キリキリする。何故だろう。少し食い過ぎたかもしれない。

「あ〜、あのかわいい感じの。」
「てか確かにあれで彼女居ない方がおかしいな。」
淳と信也は口々に感想を漏らす。
理貴は、「なんだよ〜。完璧な推理だと思ってたのに〜。」
そう言ってうなだれていた。

「俺達がどんだけ考えても、わかんねぇもんはわかんねぇんだから、考えるだけ無駄だろ。もう良いんじゃねぇ。」
夕はそう言って話を帰結させた。
一同も「まぁそうだな。」と言って頷いて、十分に納得したようだった。
しばらくすると、淳達の話題はさっきの話の延長で、かわいい女子の話になった。
そうなると夕は、いきなり一人取り残されたような、そんな気持ちになるのであった。


三日目も朝は早く、マイルの予選がすぐ行われた。
夕達は基本的にはマイルも四継と同じメンバー、同じ走順なのだが、今回は予選だけ前山の代わりに理貴を起用した。短距離専門の前山と棒高跳びの理貴ではタ イムこそ全然違うものの、予選を通る為だけならば十分過ぎる戦力だった。前山はこの日200mを最高三本走る必要があったので、余力を残すために富田がそ う指示したのだ。
それでも予選は組一位で通過した。全体的には二位だったが、前山を使えば余裕で一位になれるタイムだった。


夕はこの日ラストのマイルに出る以外やることがないので、それからずっと暇を持て余す結果になった。
他人の応援を進んですることはあまりないし、今日は妙に天気が良くて、スタンドでぼ〜っとしているのも暑くて嫌だ。
とりあえず夕は散歩に出掛けた。テントは選手がそわそわしていて落ち着かなくて、一人になれる涼しい場所が欲しかった。


何となしに目的もなく歩いていたら、足は自然とサブトラックの方に向いて行った。付近を通り掛かると、今アップが終わったのかスパイクの袋を片手に下げたあいつが歩いて来た。下を見てる、夕にはまだ気付いていない。夕はそこで立ち止まった。


50m…


40m…


30m…


いつ気が付くのだろう。すでにこっちは奴の目鼻立ちまで確認出来るというのに。

前向けよ。似合わねぇよ。下向いてるお前は、お前じゃないよ。


5m。

武人はやっと前を見た。奴は、一瞬目を丸くした。

「っ、先輩…! …ちわっす!」

そう言って白い歯を見せるが、なんとなく元気が無いのがわかる。

「おっす。調子は?」
「上々っす。」
うそつけ。
「てか、先輩200出ないんすか!?」
「ああ。よく知ってんな。」
「さっき前山から聞きました。なんで…。」
そんな顔すんなよ。ライバル減ったぞ。喜べよ。
「別に調子が悪いとかじゃねぇよ。ただの作戦。」
「そうなんすか…。残念っす。」
残念?
「まぁお前もこれで6位入賞しやすくなったな。頑張れよ!」
「…うっす。んじゃ、行ってきます!」
また白い歯を見せる。
痛々しいからやめてくれ。

そうして武人は夕の肩を通り過ぎて行った。

他人の心に深く入ろうとしないのは、いつの間にか染み付いてしまった悪い癖だ。
お前は一体何を苦しんでいるんだ?
聞きたい。

でも

聞けない。

ギラギラの太陽が容赦なく照り付ける。

暑い。





ようやく落ち着いたのはサブトラックを越えた先にあった大きな木の木陰だった。
そこは陸上競技場の管轄ではない場所のようで、サブトラックからそう遠くはないのに休憩場所として使用してる選手は誰も居なかった。
地面は少し伸びすぎた芝生だったので、寝転んでも痛くない。夕は、トラックを背後にしてその大きな幹に背中を預けた。
昔からこういう処は好きだ。
そういえば、あいつと初めて会った日も、あの木の下で寝てたな。夕は思い出してくすっと笑う。

あいつと会ってから、なんかいろいろあったな。
スパイク選んでやって、いきなり家に上げて、一緒に練習して、また家に上げて。こないだは銭湯でも会ったし。大会の時は無駄に絡み付いて来て、うっとうしくて、…楽しくて。
そういえば、もしもあいつが200で勝てなかったら、あいつと会えるのは今日が…最後だな。
寂しくなるな。

「進藤先輩?」

不意に、背後から声をかけられた。夕は咄嗟に振り向いた。
そこには、武人の彼女、香奈がいた。

「…あ、ごめんなさい!ちょっと、お話ししたい事があって来たんですけど…。出直しますね。何か悲しい事でもあったみたいですし…。」
最初、夕は彼女が何を言っているのか分からなかった。
「悲しいことって?」
そう聞き返す夕に戸惑いながら、香奈はきっぱりと答える。
「何か、悲しい事があったから、…お泣きになってるんですよね?」

オナキニナッテル?どういう意味だ?お泣きになる?泣く?誰が?俺が?何故?

半信半疑で夕は自分の頬に手を当てると、濡れている事にやっと気付いた。

「いや、違う違う!これは涙じゃない!汗だよ汗!ハハッ。」
そう言って夕は必死にその瞼から溢れる水滴を拭った。しかし、何かをごまかそうとするたび、何かが混み上がって来て、言い訳の言葉は、いつの間にか鳴咽に変わって行った。

「大丈夫ですか!?」
香奈は心配そうに駆け寄る。
「あぁ…大丈夫。多分…すぐに…治まるから。」
その正体不明の涙は、今まで夕が殺し続けて来た『夕自身』なのだろうと、夕は、心の底では理解していた。



「ごめんな。恥ずかしい処見せちまって。」
一通り落ち着いて、夕は隣で正座している香奈に向かってそう言った。今女子の200mを走り終えた処なのか、青地のジャージの中に武人と同じユニフォームの柄が見える。
「いいですよ!流石に、ちょっと、びっくりしましたけど。…でも、私もたまに、ずっと溜め込んでたものが一気に弾けること、あるんです。こう見えて、学校では優等生気取ってるから、自分を押し殺さないといけないこと、たくさん、あるんです。」
「…そうなんだ。じゃあ、俺こんなの初めてだったから、多分君よりびびってたと思うよ。」
「何かきっかけ、みたいなものがあると、それを契機にして、小さなヒビでダムが決壊するみたいに、溢れてくるんです。私、何度か経験ありますよ。」
そう言って香奈は小さく笑う。その微笑みは、夕の目から見てもかわいらしく映った。
「そっか。…あ、そうだ、なんか話したい事があるって言ってたけど。」

「あ、はい!そうでしたね。忘れるところでした。」
「ハハハッ!忘れたら何しに来たって感じじゃん!」
「ホントに!」
二人は少し笑った。
とても感じの良い子だ。武人が惚れるのも分かる。
また胸がちくりとする。
「で、何の話?」
「はい。…あの、武人の事なんです。」
香奈は少し言いづらそうにそう言った。

「武人とは、幼なじみだったんです。家も近くて、幼稚園のころから一緒で。」
香奈は空を見つめながら、話し始めた。
一体何を言い出すのだろうか。
夕は少し身構えた。ただの惚気話なんか、聞きたくない。

「お調子者で、でも優しくて。周りの気配りとか、よく出来るんです。しかも本当に自然に。」
それくらい俺も知ってる。
「…私なんか、心の底ではいつも見返りを欲しがってるんです。…卑怯ですよね。」
「そうかもね。」
夕の言葉に、香奈は少し黙った。しかしすぐにまた、話しはじめた。
「実は、私たちの関係って、その頃から、何も変わってなかったんです。」
「どういう意味?」
夕は怪訝に香奈の方を覗いた。一瞬、香奈と目が合う。香奈は小さく微笑んだ。
「私たち、『付き合ってる』って言ってましたけど、実際には、そんなんじゃなかったんです。ただの幼なじみの延長線上。本当はキスの一つも、手を繋いだ事すら無かったんですよ。」

驚いた。武人の事だからもっと手が早いのかと思っていた。

「多分、私たちはお互いをパートナーとしては認めていても、異性としては見ていなかったんです。…いえ、少なくとも、武人は、そうだったと思います。」
香奈はそう言って、表面上は微笑みながらも、少し悲しげな顔をして俯いた。

「…それで、そんな話をどうして俺に?」
香奈は顔を上げるとまた小さく笑う。

「…別れたんです。ただの幼なじみに、戻ったんです。」

その言葉を聞いて、夕は昨日の武人と香奈のやりとりを思い出した。何か感じた違和感。その真相が今分かった。

「大会の前日に、そういう話になりました。なんだか凄くさっぱりした顔で、何か、大きな事を、決心したみたいでした。」
香奈はそう言いながら、じっと宙を眺めていた。
空は雲一つ無い。木の枝と枝の間から漏れる光の帯が、彼女の美しい顔に幾筋も降り懸かる。

「…そうなのか。驚いた。…でも、だから、なんでそれを俺に言いに来るんだ?俺はあんまり関係無いだろ?」
夕がそう言うと香奈はくすっと笑った。
「そうですね。関係、無いかもしれません。」
「じゃあ、なんで…。」
「明確な理由は、無いんです。『女の勘』って奴でしょうか。先輩に言わなきゃいけない気がしたんです。ただ、それだけです。」
そう言うと香奈は立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ行きますね。チームメイトの応援しないといけませんし…。お邪魔しちゃって、ごめんなさい。」
そして深々とお辞儀をすると、さっと踵を返した。
夕は、彼女の真意を計り兼ねていて、満足に挨拶も返せないまま、遠ざかっていくその小さな背中を見送るだけだった。




ぐるぐるする。





あの子は俺に何を伝えに来たと言うんだ。



…期待しろとでも言うのか。



馬鹿馬鹿しい。

何かを求めれば求めるほど、その期待が裏切られた時の痛みは大きい。

傷付きたくなければ、始めから何も求めなければ良い。



『あいつ』に教わった事だ。



武人が俺の事をどう思っていようが関係無い。

俺は、いかなるものにも期待しない。



…もう、痛いのは嫌なんだ。



ぐるぐるする。





「進藤!何処行ってたのよ!せめて200くらい見に来ても良いでしょ!?後輩も出てるのに…。」

テントに戻るといきなりともよに説教を食らった。
「予選なんて見る価値無い。」
そう切り返したら凄い剣幕で「後輩の応援くらいしなさいよ!いつも応援して貰ってるんだから!!」と怒鳴られた。テントで待機していた下級生達はそれを見てクスクス笑っている。

夕は渋々と了解の返事を返すと、シューズを脱いでテントの中に入って行った。マネージャーがやってくれたのか、夕がテントを後にした頃には騒然としていた荷物類が、いつの間にか綺麗に整頓されている。夕はその中から自分のエナメルバッグと一枚のストレッチマットを引き抜くと、それを持ってテントの開けた場 所に移動した。マットを広げてその上に腰を下ろし、バッグから今朝買い出した昼食を取り出す。毎度の事、それは蕎麦だ。

夕が他人の応援をあまりしないのにはいくつかの理由がある。『見る価値がない』というのも一つではあるが、それは専ら二義的なものでしかなかった。やはり一番夕が応援に行く、というよりスタンドに出るのを嫌悪する理由は、意に解さず自分に降り注ぐその『視線』の重さだ。
苛々するのだ。後ろ指を指されて囁かれる事が。例えそれが自分にとってプラスの言葉だったとしても。心では卑賎な事だとは思っていても、それによってほんの少しの優越を感じてしまう自分に、苛々するのだ。
所詮『外見』。人間の一切をも写し出さないペルソナ。
そんなものに魅了される醜徒にも、そんなものを少なからず誇示しようとする自分にも、とことん嫌気がさす。

夕は仏頂面で黙々と蕎麦を啜った。割り箸が上手く割れなくて持ちにくいのに、益々いらついた。





200mの準決勝は、ともよに引きずられて観戦しに行った。メインスタンドの最前列。短距離の観戦にはベストの場所だ。夕達はつい今しがたまで日陰であったはずのそのベンチに腰掛けた。メインスタンドには日よけの屋根が設けてあるが、昼過ぎに太陽が傾くとそこは一転して日なたになってしまう。

前山は結構激戦区だったにも関わらず、組二位で堂々の決勝進出を決めた。
…武人は、組も良かったのもあってこれも決勝を決めたが、やはりあまり調子は良くないようだった。どうも走りに余裕が無く、体力を無駄に浪費しているように見えた。これでは決勝では勝てるものも勝てない。200mは長い。無駄の多い走りでは後半に落ち込んでしまう。
「…あいつ何焦ってんだ…。」 夕は舌打ちをするとそう呟いた。すると隣で速報の記録をしていたともよが顔をあげて、「前山君のこと?」と怪訝そうに聞いて来た。夕は答えるのが面倒で、 その質問を無視した。ともよは「なんで無視するかな…。」とかぶつぶつ言いながら、また記録に戻った。

夕もしばらくはそこに座っていたのだが、やはり照り付ける日差しは暑いし、背後がヒソヒソと煩いしで気分が悪くなってきた。やがて痺れをきらして立ち上が ると、「じゃあ、俺テント戻るから。」と言って、依然記録を続けるともよを尻目にスタンド裏に繋がる階段に向かって歩き出した。ともよは唖然としながら、 ただ夕の背中を見送るだけだった。


『テントに戻る』と言いつつも、夕が向かったのは件の木陰だった。
向かう途中、前山とサポートの一年がサブトラックでジョグをしていた。前山は夕に気がつくと、軽く会釈をした。
「決勝すぐだろ?ダウンなんて必要無いぞ。」
すれ違い様に夕が呆れ目にそう言うと、前山は夕の前でストップして、バツが悪そうに「いや、…一応…。」と言って頭を掻いた。夕はため息混じりに腕を組む と、前山を待って後ろで停まっていた一年に「お前もうテント戻ればいいぞ。こいつもすぐ戻るから。おつかれさん。」と告げた。それを聞いて一年は簡単に返 事をして一人走って行った。

「お前なぁ、もっと考えて試合運び出来ないとまずいぞ。もうすぐで俺達も引退するんだし、いつまでも言われた事やってれば良いなんて大間違いだからな。」
「はい…。。」

いつもそうだが、前山は自分で物事を考えるのが苦手だ。夕はその前山の他力本願がとても気に食わなかった。夕はこれから言うタイミングも中々ないだろうと思い、そのまま日々思っていた事をいくつか言い連ねた。前山は一切反論しない。

「『先輩』に必要なのは実力じゃねぇぞ。後輩を引っ張っていける『格』だ。今のお前にはそれが無い。実力があっても頼りにならない先輩なんざ、後輩は評価しないからな。よ〜く覚えとけ。」
「…はい。。」
前山はただ俯いていた。
「それから、200は思いっきり行けよ。マイルの事なんか考えるな。6位内入って来年の勉強しとけ。お前は俺と違って長いの走れるから、100だけになんてならないだろうからよ。」
そう言って夕は前山の肩を軽く叩いて、そのまま歩を進めた。数歩歩いてやっと後ろの方で前山が「ありがとうございます!」と叫んでいるのが聞こえた。
何がありがたいんだか。ただの憂さ晴らしだ。夕は思う。


サブトラックを横切って、目的地に着く。夕は来た方向を背中にして、木の幹の真横にすとんと座る。
何をするでもなく、ただじっと目の前に広がる芝生の広場を眺めた。そこは本来は多目的グラウンドなのか、奥の方にはサッカーゴールのようなものが横たわっている。

なんだか気分が重い。理由はよく分からない。
今大会の夕達の成績は、学校始まって以来の好成績だ。三年は全員が出場種目三位内に入り、今の段階で総合優勝は確実。本来なら、気分は歓喜に満ちていてもおかしくはない。
それでも、夕の心は重い。
生暖かい風が夕の肌を舐める。

ふと、夕は先程の涙を思い出した。あれには自分自身非常に驚いたのだが、あれも原因は謎だ。
香奈は、あれの正体を『日々押し殺してきたものが何かのきっかけから溢れ出したもの』だと言っていた。
…『きっかけ』とは一体何だっただろう?

そう思い至った時、夕は突然、後ろから何かとても暖かいものに包まれたような、そんな錯覚に陥った。しかし夕は、すぐにそれが錯覚でもなんでもなく、実際に背後から誰かに抱きつかれているという事に気付いた。
胡座をして座っていた夕の身体を、すっぽりと懐に納めてしまえるような大きな体躯を持っている奴は、今日は来ていない恭介か、あいつしかいない。
状況を理解して初めて、夕は自分の顔面が沸騰しそうな程熱くなっていくのが分かった。

「た、武人!?何だよおまえ、離れろバカ!!」

そう言って夕は自分の背中に埋まっている武人の頭を後ろ手に掴んで、カチカチの髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回したり 、抜け出そうと出来る限り暴れてみたりした。しかし武人は、夕の腹部に腕を回してしっかりとホールドして離さない。しばらく夕は抗議しながら抵抗を続けた が、やがてそれが用を成さないと気付き諦めた。幸いここならまず人に見られる事はないだろうと、そうも思った。武人はその間ただ何も言わず、夕の背中に自分の頭を押し当てて、ぎゅうぎゅうと夕の腹に回している手に力を込めるだけだった。
様子が変なのは、一目瞭然だった。
「…どうしたんだ?」
夕には、武人が一体どんな顔をしているのか全く分からない。だから、つい、心配になって、ずっと他人の中に入っていく事を避けて来たはずなのに、こんな柄でもない事を言い出したんだと、そう言った後に夕は自分自身に言い訳をした。
しかし武人は、それでも何も言わなかった。
夕もなんとなく、この場で言葉を発する事は野暮だと思って口をつぐんだ。


二人の真上で無数の木の葉が、時たま吹く緩い風にさらさらと擦れ合う。

太陽の匂い。

何故だかそう思った。
そんなものの香り、嗅いだ事はない。嗅げるはずもない。しかし、武人から薫るこの爽やかな香りを形容するとしたら、そう言うしか夕の頭には思い浮かばなかった。
夕はとても気持ちが良かった。自分の背中越しに感じる武人の体温が心地良い。さっきも感じた、まるで太陽に包まれているような感覚。
つい今まで自分の心を支配していた重い気持ちが、いつの間にか嘘のように消えてしまっていた。
いつまでもこうしていたい。
心から夕はそう思った。

そして、夕の心の中にあった一つの取っ掛かりが、音を起てるように、弾けた。
もう絶対に抱くまいと、心に決めた感情。
それが今、どんどん、どんどん大きくなっていく。
もはやこの気持ちは、どのようにもごまかす事も、言い訳ることもできないと、夕はようやく気付いてしまった。


俺は、


武人が



…好きだ。


また、夕の中に、あの甘い果実が一つ、朱く、大きく、実ってしまった。

数分の間何も言わなかった武人が、いきなり夕を拘束していた腕を解き、『そろそろ決勝のコール始まるんで、行ってきます!』と屈託無く笑って夕の返事も待たずに走って行ってしまったのはつい10分程前の事だ。
結局、武人が何を意図していたのかは分からず終いだった。

夕は、武人が去ってから独りでしばらくぼ〜っとしていた。
武人が居なくなった背中が、嫌に寒いのが寂しくて、なんとなく動けなかった。

武人が好きだ。…だけど期待はしない。夕はまた一つ、自分の中で誓いを立てた。この感情は自分の心の中に留めておこう。
確かに武人が、夕に対して特別な意識を持っているであろう事は言うまでもなく分かる。
しかしそれが、夕と同様のベクトルであるかどうかは断定出来ない。むしろその可能性は極めて低い。『同性愛』などというものは異端だ。その辺に転がっているようなものではない。変に期待して裏切られるよりは、何も求めずに何も得られない方がずっとマシだ。
そう考えている内にも、夕の心に大きく遺っている傷痕が、ズキズキと痛んだ。

夕は心を一通り落ち着けて、腰を上げた。そろそろ決勝が始まる。



競技場に入ると、女子の200が始まるところで、淡々と紡がれる選手紹介の中、そこは今にも弾けそうに高まった狂熱を孕んだ静けさで満ちていた。
夕は先程自分が座っていたベンチを見遣ると、そこにはともよがさっきと同じように座っていた。記録用のプログラムを膝に置いて、ただじっと、200mのスタートに並ぶ八人の選手を見つめている。その瞳は、どこか悲哀とも羨望ともとれるような、そんな色を放っていた。
夕がともよを少し離れた所から眺めている内に、試合は始まった。僅か二十数秒。その短い短い時間の中で、数え切れない程のドラマが生まれる。泣く者、笑う者、どちらでもない者。なんにしろその結果は須らく無常なものだ。会場が沸いている二十数秒、夕はただひたすら見ていた。そこで繰り広げられているいくつものドラマを。


「…脚が壊れてなかったら、今頃お前もあそこに居たんだろうな。」
レースが終わって間もなく、夕はそう言いながらともよの隣に腰を降ろした。最初ともよはひどく驚いた表情を見せたが、すぐに諦めたように小さく笑った。
「…気付いてたんだ。隠してたつもりだったんだけどな。」
「バレバレ。…ま、多分俺しか気付いてないけど。あんだけ速かったのにいきなり高校ではマネージャーに転身なんておかしいだろ。それに、同じ中学で同じ種目だったんだ。今の歩き方とか走り方見てれば、なんかあったってぐらいは分かる。お前意識してんのかどうかは知らないけど、右脚庇いながら歩いてるし走ってるよ。」
夕はスターティングブロックをセットしている男子選手達の方を見ながらそう言った。小さいが、武人も見える。
「やっぱり進藤ってそういうところよく見てるよね。うかつだったな。」
「つっても、今の今まで半信半疑だったけどな。だって体育とか普通にしてるし。…まぁ本気で走ってるようには見えなかったけど。」
夕がそう言うと、ともよは訝しそうに夕の顔を覗いた。
「…じゃあ今のもしかして…。」
「かまかけた。」
「…あっちゃ〜。やられた…。」
ともよは少し赤面しながら鼻の頭を掻いた。そして一つ短いため息をはくと、切り出した。
「実はね、中三の春にはもう発覚してたの。…私の脚、右足の足首なんだけどね、骨が一本多いらしいの。普通に適当な運動をするくらいなら全然問題無いんだけど、過度の運動をすると、その骨が筋肉の腱を圧迫して、…すごく痛むんだ。
手術で骨を撤去すれば治るらしいんだけど、リハビリに一年くらいかかるらしいから踏ん切りが付かなくて。だって私達にとって一年って大切じゃない。私がリ ハビリなんかしてる間にも、ライバル達はどんどん先に進んで行って、私は独り置いていかれちゃう。…そんなの嫌だった。だから、私はリタイヤしたの。中三の春にお医者さんからその話を聞いた時、夏までは、って心に決めて、スプレーで冷やして麻痺させてなんとか走り抜いた。そこで、…私の陸上人生は終わり。」
「なんで隠したんだ?」
「…なんでだろうね。わかんない。でも、多分後ろめたかったんだと思う。手術受けて、一年のハンデを負う勇気が私には無かった。また一からはい上がるより、栄光を掴んだまま勝ち逃げすることを選んだ狡さを、みんなに知られたくなかったんだと思う。」
「…そっか。」
「ちょっと!やだなぁしんみりしないでよ!」
声のトーンを落とした夕を気遣ってか、ともよは笑顔を作ってそう言った。
「…それから…、告白ついでにもうひとつ言って良い?」
ともよは少し恥ずかしそうにしながら、遠慮がちに聞いて来た。何を言うのかはなんとなく分かっていたが、夕はともよから視線を逸らすと、無言で頷いた。トラックでは、選手紹介が行われていた。8レーン、武人が手を挙げている。

「…私、中学の頃から進藤の事、…好きだった。だから、高校もここにしたんだ。『陸上辞める』って決意してから、同時に進藤のことサポートしようって決めたの。お節介だったかもしれないけど、私のやりたい事だったから。」
ともよは少し頬を染めていて、周りの静けさもあって小声だったが、その言葉にはなんの迷いもなかった。夕はそのともよの堂々とした態度に、逆に赤面してしまった。
「…うん。 …あれだ、その、ゴメン。」
そして俯き気味にそう言った。
ともよはそれを聞くと、落ち込むそぶりも見せずに、微笑んだ。
「別に良いよ。…分かってたから。私は進藤の役に立てればそれで嬉しかった。それにこうやって進藤の隣にいれば、いろんな噂が立つし…。全部『何かの間違い!』って断ってたけど、内心は嬉しかったんだよね。」
むしろ清々しさすら感じる顔をして、ともよは言った。
「つか…俺、お前じゃなくても無理…だから。」
夕はともよのあまりの潔さに何を思ったのかそうこぼしてしまった。しまった、と思った。こんな事は言わなくても良かった。食いつかれたら、面倒だ。…しかし、夕の危惧とは裏腹に、ともよはそれでも平然と「それもなんとなく、分かってた。」と言った。
「私の恋は始めから実らないってのは分かってたの。私も、進藤のこと中学から見てたんだから。だって進藤、中学のころも、…亮君の事ばっかり…。」

ともよが言いかけた時、レースがスタートし、一気に周りが騒然となりその声は掻き消された。ともよも自ずと口をつぐんで、替わりに前山の応援を始めた。ともよが言いかけた事が気にかかったが夕もそれに続いた。





大会を締め括るマイルも終了して、選手達は閉会式の為に続々とトラックに集まって来ていた。その時夕達四人は、マイルの表彰を台の真ん中で受けていた。表彰台の目の前にはメインスタンドがあり、そこから後輩達が携帯やインスタントカメラで写真を撮りまくっている。
表彰が終わると四人は地元の新聞社のインタビューを一通り受けて、その後、まだ始まらない閉会式の列に並びに行った。

「なんかインタビュー夕ばっかりだったよな。ずるいよな。」
納得いかないと言った顔をしながら淳が呟く。
「気のせいだろ。」
「いやいや気のせいじゃないから!」
信也も同調する。
「あのインタビュアーのおばさん夕しか見てなかったし…。」
「そうそう!たまにどうでも良い質問を俺らに振るんだよね。マジうぜぇ。」
「完全に俺ら『その他大勢扱い』だったよな〜。。」
二人は口々に文句を言い合っている。
夕にしてみれば、そんなことはどうでも良かった。

後輩陣が既に並んでいる列の前に入る。そこは会場のど真ん中だ。夕達のまさに目の前で偉いさん達が話をする。予めその位置を奪取しろと後輩達は先輩陣から言い付けられているのだ。
そして夕はようやく列に落ち着いた。
終わる。いろんなものが。この三日は、なんだか酷く長かった。
辺りががやがやと煩い中、夕はそんな事を考えながら立ち尽くしていた。
その時、後ろから聞き慣れた声で「先輩。」と呼ばれた。夕はおもむろに振り返った。

声の主は、武人だ。浮かない顔をしている。
「どうしたんだよ。暗い顔して。お前らしくねぇ…ぞ。」
夕がそう言うか言わないか、夕はいつの間にか武人の腕の中に居た。そこは完全に公衆の面前。1000人超の選手達の見える位置だ。そんな場所で、夕は他校の男の後輩に超大胆にハグされている。普通なら、恥ずかしくて仕方なかっただろう。いつもなら、罵声の一つでも浴びせて強引に引きはがしただろう。
顔が熱いのはいつも通りだ。だけど、今回ばかりは自分を抱きしめてくれるその自分より一回り大きい後輩が、とても愛しく思えた。
太陽の香り。暖かい。

「…負けちゃったよ…。」

武人は、夕の耳元でそう言った。まるで泣いてるみたいに悲痛な声で。

分かってるんだ。お前が俺にこの言葉を言って欲しくない事。
分かってるんだ。お前が俺にもう会えない事を悲しんでる事。
分かってるんだ。…お前が俺の事をスキなこと。

でも、怖いんだ。
全部嘘かもしれない。
もしそうだった時、痛いから。

この気持ちは、ここに置いていくよ。




バイバイ武人。




抱きしめ返してやれなくてゴメンな。

いつも憎まれ口しか叩けなくてゴメンな。








ありがとう。





「…お前には、まだ来年があるだろ?」
夕はそう言って、武人の背中をぽんぽんと叩いた。
ただの先輩としての一言。
この言葉が、どれほど彼を傷付けたのかは、夕には分からない。強く抱きしめていた武人の腕は、するりと解けた。武人の顔は、見れなかった。
「ほら、並べよ。もう閉会式始まるぞ。」
夕がそう言って踵を返すと同時に、閉会式開始のアナウンスが流れた。
武人は、夕の後ろでただ何も言わず、立ち尽くしていた。


夕達は男子の部に於いて学校始まって以来の総合優勝を獲得した。閉会式終了後、100mで大会記録を達成した時でさえ一切涙を見せなかった夕が、他の部員に混じってさめざめと泣き出したのを見て、部員達は驚いた。
ただ、その涙の色が歓喜では無いという事には、ともよを除いてだれも気付かなかった。


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作者  one  さんのコメント
再投稿だというのにコメントいただけて恐縮です。。
俺の更新を待っていただいている方がいるということが何より嬉しいです!
すごくやる気が出ました!
出来るだけ近日中に続編をアップしようと思うので、もうしばらくお待ちくださいね!