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目覚める欲望(3)


記事No.183  -  投稿者 : アロエ  -  2013/07/19(金)18:57  -  [編集]
「わざわざ、こんな遅くに残らせて悪いな」
 パイプ椅子に座りながら、安藤はそう最初に切り出した。
 目の前に立つ少年が、暗い表情のまま無言で頷く。
 下校時間はすでに過ぎていた。室内はさっきまでの喧騒がすっかり消え去り、部活の練習を終えて制服に着替え直した少年と自分以外にもう誰もいない。
「監督……その……話というのは……?」
 たどたどしく問うてくる少年からは、可哀想なまでの不安と緊張が伝わってくる。
「先月の事だ」
 平静さを保ちつつ、安藤は答えた。
 少年の表情が強張っていく。おそらく彼にしてみれば、今すぐにでも耳を塞いでしまいたいくらいであろう。
 だが安藤とて、もはやこの問題を放置し続ける事に限界を感じていた。
「俺もここの顧問になったんだ。お互い、あれをなかった事としてこのまま済ます訳にはいかないだろ?」
「………」
「川野も、俺と接するのが嫌そうだからな」
「そ、そういう訳では……」
 返答に窮したとばかり、川野順は戸惑った表情となる。
 四月になり、新しく赴任したこの高校で、安藤は予定通り水泳部顧問に就任した。最もこの季節、温水プールなどという豪華な設備はここにはないため、今はもっぱら筋トレによる体力作りが主な練習メニューではある。夏に向けてこれから色々と忙しくなる時期だけに、顧問として安藤はどうしてもあの問題にケリをつけねばならなかった。
「俺が、怖いか?」
「………」
「あんな事を見られながら、今まで素知らぬ風を装ってたんだ。お前だって、今日まで俺に対して気が気じゃなかっただろ?」
「はい……」
 安藤の視線から逃げる様に顔を俯けたまま、か細い声で順は答える。
「西岡先生とは、今どうなってるんだ?」
「いえ……あの日以来、特に連絡もなく……」
「そうか」
「ただ、その……」
「何だ?」
「安藤先生の言う事にはしっかりと従え、と言われました……」
「……なるほど」
 小さく、安藤はため息を吐いた。
 西岡との記憶が、安藤の中で鮮明に蘇っていく。

「なぜ……私にあんな現場を……?」
 職員室へと戻って来て、安藤はそう言葉を発するだけで精一杯であった。
 さっきまでの衝撃的な光景の数々は、未だ安藤の中で処理し切れてはいない。自分達が去り、一人残された順が今どうしているのか気掛かりではあった。だが今は、とてもあの少年と再び顔を合わせる気にはなれない。
 困惑する安藤を尻目に、西岡は自分のデスクの椅子へと腰を下ろす。
「先生が、ここの部の顧問になられるからですよ」
「だからって……」
「知らない方が、よかったですか?」
「………」
「私はね、先生に自分と同じ匂いを感じたんですよ」
 そう静かに、西岡は言ってきた。
「え?」
「去年の大会に、先生もいましたよね?」
「はい……」
「あの時、あなたは川野の存在に随分と関心がある様子でしたね」
「それは……」
 全てを見透かす様な西岡からの眼差しに、安藤は露骨なまでに狼狽していく。
 順に見惚れていた自分と、そんな自分を遠くで嘲笑いながら見ていた西岡の光景が嫌でも脳裏に浮かんできてしまう。
 あのほんのささいな一瞬に、己の秘めていた感情を暴かれてしまい今日というこの日に繋がっていたのかと思うと、安藤は西岡に対して如何ともし難い敗北感すら覚えた。
「だからこそ、きっと先生なら今日の出来事を気に入ってくださると、思っていたんですよ」
「私に……西岡先生は、何を求めているんですか……?」
「安藤先生自身が、どうするか決めればいい事です。私はもう、こことは関係のない人間になるんですから」
「今後、川野とは……?」
「私はもう、彼と関わるつもりはありません。そろそろ、潮時だと思っていましたからね」
「川野に、飽きたんですか?」
 皮肉を込めて、安藤は問い掛ける。
 だがそんな安藤に、西岡は苦笑してきた。
「逆ですよ。私は川野に飽きるどころか、どんどんあいつに溺れてしまっていた。そんな自分に、怖くなってきたんです」
「………」
「あれで、川野はかなりの魔性を秘めてますよ。先生も気をつけてください、あまりあいつに我を忘れていると、いつか身の破滅を招くかもしれませんから」
「わ、私は……」
「ただの忠告ですよ、先生にとってそれが意味のないものであるなら、さっさと忘れてもらって結構です」
「………」
「今夜はもう遅い、この辺でお開きとしましょうか。それでは、四月からここの水泳部と川野を頼みますよ。安藤先生」
 それが、西岡と交わした最後の言葉だった。

「川野」
 改めて、安藤は順へと言葉を投げ掛ける。
「は、はい」
「あんな目に遭って、お前はこのまま泣き寝入りするのか?」
「………」
「いくら弱みを握られていたからとはいえ、西岡先生のした事は許されるもんじゃない。あれは立派な、生徒への性的虐待だ」
「お願いです……どうか、先月の事は誰にも言わないでください……」
 苦渋の色を表情に滲ませながら、順は安藤へ懇願する様に言ってきた。
「だがな、俺はあの現場を見てしまったんだ」
「………」
「それを今さら、他人事として忘れられる訳がないだろ」
「全部、僕が悪いんです……」
「なぜだ?」
「………」
 安藤の問いに、順はどこか躊躇う様子で黙り込んでしまう。
「ちゃんと話してくれないか?俺だって、川野の心の内をちゃんと理解したいんだ」
 極力穏やかな口調で、安藤は順へと語り掛けた。
 しばしの沈黙が、室内を支配する。
 ここまできて、もう後戻りする事は出来ない。安藤は、順が話してくれるまでただ待つしかなかった。
 やがて、安藤に対して順は再び重い口を開ける。
「西岡先生がこの前言った通り……あんな事になった原因は僕にあるんです……」
「付き合っていた恋人との、あの話か?」
「はい……」
 顔を俯けたまま、順は今にも泣きそうな声で答えた。
「確かに、お前にだって問題はあったかもしれない……だがな、いくら何でも……」
そんな安藤へと、順は即座に頭を振る。
「僕は、男としての責任も取らず……逃げる事しか考えていませんでした……彼女に辛い思いをさせて……その子供まで、殺してしまったんです……」
「………」
「確かに……その後の日々は、僕にとって地獄そのものでした……だけどそれは……僕にとって、当然の報いなんです……」
 少年の悔恨と悲痛さが、その言葉に込められていた。
 安藤はやりきれない気持ちとなっていく。中絶という形で、順は世間的な立場を保つ事は出来た。だがそれは、十七歳の少年にとってあまりに深い傷となって未だ癒える事はないのであろう。
(あの男も、残酷な事をしたもんだ)
 悪意に満ちた笑みを浮かべる西岡の顔が、安藤の脳裏に過ぎる。
 おそらく西岡は、順の中で渦巻く罪の意識へと巧みにつけ込み、己の意のままにコントロールしていたのかもしれない。決して逃げる事の出来ない牢獄に閉じ込められた少年の哀れさを安藤は悟る。
『川野を頼みますよ。安藤先生』
 西岡の言葉が、不意に蘇った。
 その瞬間、安藤の中で今まで抱き続けていた迷いが、一気に消え去る。
「……報いか」
 ポツリと、安藤は呟く。
 なぜか、自然と笑みが浮かべている自分がいた。
(俺は、何を考えてる?)
 ずっと自分は、安全圏にいる事を望んでいた。この問題も、穏便に終わるならそれでいいと思っていた。だが安藤の中で、順のあまりに脆弱な内面を知ってしまった今、抑え続けていた箍が呆気なく外れていく。
「監督?」
 急な安藤の様子に、順が戸惑う様な表情となる。
「川野、西岡先生がわざわざあんな現場を見せてまで俺に託したかった事が、ようやく今になって分かったぞ」
「え……」
 不思議と、安藤の心が急速に高揚していく。
「お前の罪と報いは、まだ終わっていないんだよ」
 それは、目の前の少年を絶望の闇へと突き落とす、決定的な一言であった。
 青ざめていく順の様相。だがそんな少年の姿に、安藤は心の芯から震えそうになる快感を覚えるのだった。


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作者  アロエ  さんのコメント
コメントくださった皆様、本当に応援ありがとうございます。
今回はエッチシーンなしですみません。
続きは出来るだけ早く投稿します。